邪馬台国の使者のお食事は? 腹が減っては戦は出来ぬ

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の9回目になります。

旅をするのに重要なのは、現代にも言える事ですが、交通手段と食料です。特に食料は案外見過ごされがちですね?

現代のようにコンビニで弁当を買う、など有り得ませんし、江戸時代の宿場町も当然存在しません。さらに厄介な事に、当時の倭国日本では、「通貨」すら存在していませんでした。物々交換するにも、その為の重い荷物を運びながら長距離移動するわけにもいきません。一体どうやって食料を調達していたのでしょうか?

 古代に於ける長距離移動の疑問の一つに、食料調達があります。当たり前ですが、人間も生き物である以上、何も食べずに旅を続けるは出来ませんよね?

 例外的に、弥生時代以前の縄文人時代や石器時代であれば、狩猟採取による食料調達でしたので、移動する事自体が食べ物を得る手段でした。また、中央アジアの遊牧民のように、家畜の餌になる草原を求めて移動する行為も然りです。

 ところが、弥生時代以降の農業を生業とする時代にあっては、長距離移動は生産性を伴わない行為です。旅をしている期間は、何かしらの方法で食料を調達しなければなりません。

 思慮の足りない古代史研究家からは、

 「縄文時代のように、狩猟しながら移動したんだろ!」

などという乱暴な意見も聞こえてきそうですね? そうかも知れませんが、現実的ではありません。

2,3人の少人数で移動する分には、縄文人のような食料調達も可能だったでしょう。密林地帯の食料になる植物や動物を狩猟したり、海産物を狩猟したりすればよいのですから。

 実際に戦後、そのような手段で食料を得ていた人物がいます。グアム島のジャングルで28年間生き延びました。旧日本兵の横井庄一さんです。しかしこれは、一人だったからこそ可能だったのです。同じジャングルに十人以上の人間がいたならば、食料の奪い合いになって、生き延びる事は出来なかったでしょう。自然の植物や動物だけでは、大人数を賄う人口扶養力が無いのです。

 仮に、ジャングルだけで大人数を賄える食料があったとしたならば、縄文人達は長距離移動する事なく、密林地帯に定住して、人口爆発が起こっていて然るべきです。そうではなかったでしょう?

 では弥生時代には、どのくらいの人数で長距離移動していたのでしょうか?

大人数だった事が分かる根拠に、後漢書の倭国からの朝貢の記録があります。

 安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見

安帝永初元年、倭国王帥升等が 生口百六十人を献じ、願いて見を請う。

 とあります。

西暦107年の、倭国から後漢への2回目の朝貢です。この中で、生口という奴隷160人を後漢に引き渡したとあります。

 奴隷だけでも160人を引き連れていた訳ですから、総勢は500人位はいたのではないかと推測します。なぜならば、朝貢の為の長距離移動であっても、山賊や海賊などの道中の危険を避けるために、ある程度の人数で武装しなければならないからです。往路で一緒にいた奴隷160人が減った後で、復路に少人数の弱小集団になってしまっては、元も子もありません。

 魏志倭人伝に書かれている朝貢の記録にも、生口という奴隷が記されていますが、人数は少ないです。卑弥呼の時代に10人と、壹與の時代に30人です。それでも、道中の危険を考えれば、少なくとも毎回100人以上の部隊を組んで移動が行われたのではないかと推測できます。

 さて本題に戻って、大人数での長距離移動となりますが、食料はどうしていたのでしょうか?

先程述べましたように、縄文人のように動物や植物という自然の生き物を狩猟採取しながら旅をした、というのはまず不可能です。考えられるのは、次の2点です。

1.食料として米などの穀物類を持ち運んでいた

2.立ち寄る場所で調達した

 まず、食料を持って移動したというのは、中世以降の長距離移動では一般的ですね? 日本でも戦国時代には、戦が勃発すれば大人数で移動しましたが、一番大切だったのは兵站部隊でした。

戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの整備・補給・修理や、後方連絡線の確保などにあたる組織です。裏方の仕事のように思えますが、実は最も重要です。具体的な話はさておき、一言で言えば、「腹が減っては戦はできぬ」、という事です。

 古代の長距離移動でも兵站部隊のような組織があったかも知れませんね? 十人当たり米俵一俵あれば、一月程度の食料にはなります。100人の部隊で10俵、500人の部隊で50俵。

可能でしょうか?

 陸路ではまず無理ですね。当時の土地の様子は湿地帯や密林地帯で獣道しかない上に、橋の掛けられていない大きな川を渡ったり、急峻な山々を越えたりしなければなりません。現代の山道にも獣道がありますが、そこに迷い込んだ経験がある方ならお分かりでしょう。そんな道を重い荷物を背負いながら歩くのは不可能です。

 魏志倭人伝に記されている邪馬台国と投馬国との間は「陸行一月」もあるのですが、その区間を食料を持って移動したとは到底考えられません。

 船で移動する場合ならば、可能性はあります。現代でも、大量の物資の輸送は、飛行機ではなく船舶ですから、感覚的に分かりますね? 一度に大量の荷物を運んで、長距離まで届けてくれるのは、船なればこそです。

 ただし、船の種類は限定されます。これまで何度も指摘しました通り、櫓をこぐという人間の力だけを動力にした古代船では、全く不可能です。ただでさえ船体重量が重く、荷物無しでもほとんど進みません。ましてや大量の物資を積み込めば?・・・。結果は明らかです。

 可能なのは帆船です。ジャンク船が発明されたのは10世紀ですので、弥生時代にはまだありませんでしたが、原始的な帆船であれば存在していた可能性があります。風の力を利用して船を動かせたならば、兵站部隊のように食料を運搬する事が出来たでしょう。井向遺跡の線刻画に描かれた大型船の補助的な帆柱や、太平洋の島々で使われてた小型の「アウトリガー・セーリング・カヌー」のような帆船。これら風を利用した船であれば、食料を携行しながら長距離移動するのも可能だったかも知れません。

 これらのように、食料を携えながら長距離移動するのが可能だったとしても、船を使った海路、しかも船の種類も限定されてしまいます。

 現実的な食料調達としてはむしろ、立ち寄る場所で調達する、すなわち現地調達していたのではないかと考えます。陸路の場合には道中の村々で、海路の場合には港々での調達になります。

 この考察は次回に持ち越す事にします。

 いかがでしたか?

戦国時代の戦の移動も、江戸時代の参勤交代も、大量の食料を自ら持って行くのが基本だったようです。ただし、それよりも1500年前の邪馬台国時代も同じだったとは、到底考えられません。陸路は整備されておらず、海路も稚拙な船しか無かった時代です。また縄文人のように、道中で海の幸・山の幸を採取しながら移動したとも考え難いですよね? すると、道中の村々での調達となる訳ですが、ここでも大きな疑問があります。次回は、その点について考察して行きます。

弥生時代の交易活動は、ほんの僅かでした

 古代史を研究していると、文献史学、考古学という流れで、その当時の商業活動に興味が湧いてきます。ほとんどの方はそうだと思います。農業生産のような、移動の無い地味な活動よりも、周辺諸国との交易品は何だったのか? なんて考える方が、よほど楽しいですよね?

 しかし冷静に当時の様子を俯瞰してみれば分かりますが、弥生時代の交易は現代で考えるような活発なものではありません。その当時は、99%が農業労働者です。商業活動をしていたのは1%未満の支配者階級の人達だけです。魏志倭人伝や後漢書にあるような中国への朝貢くらいしか、交流はなかったでしょう。もちろん、対馬や壱岐の住民が食料調達の為に、頻繁に朝鮮半島を行き来していたでしょうが、そんなのは例外中の例外です。

 日本海沿岸地域からは「鉄」の出土が多いのですが、これも交易だとは思いません。高句麗や新羅あたりで難破した船は山陰地方や北陸地方に流れ着きますので、その漂流民たちが携えてきたもの。あるいは彼らが上陸してから鉄の生産を始めた。と考える方が自然に思えます。

 私は常に、古代史は商業活動ではなく、農業活動こそが主役だと考えています。