文身(イレズミ) 倭人は南方系?

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魏志倭人伝を正確に読んで行くと、弥生時代末期の日本列島の様子が、手に取るように分かります。

これまでに、女王の都・邪馬台国への行路、21ヶ国の小国群、ライバル・狗奴国の場所、帯方郡から女王國までの距離、などについて、詳しく読み進めてきました。

 今回からは、倭国の風俗・習慣に関する記述へと入って行きます。

 魏志倭人伝の構成は、大きく三つの章に分けられます。

第一章、女王國の構成や位置関係

第二章 倭国の風俗習慣

第三章 女王國の政治や外交

 原本には、句読点やスペースすら無く、淡々と漢字が列挙されているだけですので、明確に三つの章に分けられているわけではありません。しかし文章の内容から、全体の構成が明らかになっています。

 今回からは、第二章の倭国の風俗習慣に入りますが、まず第一章の内容を簡単におさらいしておきます。

 邪馬台国への行路は、このようになっていました。

この中で、九州島に上陸してからは、全て90度の誤りがありましたので、修正しています。またその後のすべての方向も同様に90度の誤りが認められます。

 倭国の中では、女王國と呼ばれる諸国連合国家が形成されており、その都が邪馬台国です。邪馬台国から北へ向かって、すなわち西へ向かって21ヶ国の小国群の記載もありました。その最後の国は奴国であり、博多湾沿岸地域です。ここが女王國の境界だとされていました。

 また、朝鮮半島の帯方郡から女王國までの距離は12000里と記述されていますが、女王國の境界である奴国までの距離がほぼ12000里でしたので、辻褄が合っています。

 さらに、女王國のライバル・狗奴国が南に存在する、すなわち東に存在するとなっていましたが、これに合致するのは、近畿地方です。日本海沿岸地域を支配していた強力な勢力に対抗できたのは、近畿地方をおいてほかにはなかったでしょう。

 さて、今回からは倭国の風俗習慣の記述に入って行きます。

良く勘違いされる方が多いのですが、ここに書かれている内容は、邪馬台国の風俗習慣ではありません。倭国、あるいは倭国内での広域な諸国連合だった女王國についてのものです。

 以前の動画で示しました倭国の勢力図を再度示します。倭国の領域は、朝鮮半島南端の狗邪韓国からで、九州島の最初の上陸地点までが、準女王國。さらに進んで女王國の入国管理局の伊都國。そして次の奴国からが女王の境界と記されています。女王國には30ヶ国ほどの国々の記載がありました。この中の、女王の都が邪馬台国です。

 また、敵対する狗奴国の記載もありました。

魏志倭人伝は、その名の通り、倭人に関する書物です。決して邪馬台国を特定したものではありません。地域を特定しているとすれば、準女王國と女王國に関する風俗習慣、という事になります。なぜならば、魏の使者たちは、伊都國に駐在させられていたからです。

「伊都國、郡使往來常所駐」

伊都國。郡使往來し、常に駐するところ。

とありますので、実際に邪馬台国まで行ったわけではなく、伊都國にに駐在させられていました。この地で、倭人たちから聞き及んだ内容が、倭国、あるいは女王國の風俗習慣として記された訳です。

 なお、魏の使者たちが伊都國に留め置かれた理由は、女王國の国防上の理由だと推測します。魏という強力な超大国に対して、倭国はヨチヨチ歩きの小国に過ぎませんでした。倭国、あるいは女王國の全体像を、魏の使者たちに知られてしまっては、あっさりと征服されてしまう恐れがあったからです。

 これは、魏志倭人伝の邪馬台国の行路に記述にも表れていました。九州島の最初の上陸地点の末蘆国から先は、全て90度の誤りがあったからです。女王・卑弥呼によって、魏の使者たちは完全に騙されていたという事です。

 では、魏志倭人伝の風俗習慣の内容に入ります。

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫

「男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。」

とあります。

倭人の男子は大人も子供も、みんな顔と体に入れ墨していました。これは、南方系の民族によくある風俗習慣で、倭人たちもその系統の民族である事を示唆しています。

また、古くから、倭国の使者が中国に来たときには、みんな自分の事を大夫だと名乗っていた、とありますが、これは当たり前でしょう。国家の使いの者が他国へ訪問した際には、高い位の者であると自称するのは、いつの時代も、どこの国でも同じです。

 次に、

夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害

「夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。」

これは、前の入れ墨の記述を補足するものです。魏志倭人伝よりも遥か昔の中国では、會稽という南方の「越」の国において、王子が入れ墨をして蛟龍の害を避けた、という言い伝えが中国正史の「史記」に記されていますので、これを引用しています。

つまり、倭国は、中国の長江下流域と同じ風俗習慣があった、という事を強調している訳です。

 なお、日本書紀には、蝦夷地の人々が入れ墨をしていた、という記述があります。蝦夷地は北陸や関東地方を含む北日本や東日本にかけて地域ですので、必ずしも南に住んでいた倭人だけが入れ墨をしていた訳ではなさそうです。

この記述は、古代史の英雄・武内宿祢が蝦夷地に赴任した際のもので、時代的には邪馬台国よりも前の1世紀~2世紀頃の時代になります。

 次に、

今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 

「今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽(すいきん)を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。」

とあります。これは、倭人たちが全身に刺青をして、海に潜って海産物を収穫している様子です。「大魚、水禽を厭(はら)う」とは、サメのような大きな魚や、邪魔になる水鳥たちが近づいて来ないようにした、という意味です。前述の夏后少康之子が蛟龍の害を避く、という記述に従うもので、刺青による効果の具体例を示しています。

 ここでの海産物を収穫ているという記述は、伝聞ではなく、実際に見たのもかも知れませんね? それは、伊都國までの行路の、対海国・対馬、一大國・壱岐、末蘆国・伊万里での記述に、海産物を収穫する様子が描かれていましたので、その様子を倭人の風俗習慣として書き記したのでしょう。

 次に、

計其道里 當在會稽東治之東

「その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。」

とあります。これは、倭国の場所を中国大陸から見た方角で示した記載です。

會稽東治とは、先ほども記述がありました通り、長江下流域の名称で、そこから東に倭国がある、としています。

 魏志倭人伝の邪馬台国までの行路では、日本列島の方角が全て90度の誤りがありましたので、その認識のもとにこの方角記載がされたのでしょう。つまり、魏の使者たちの脳みその中では、日本列島はこのように九州が北、本州が南に伸びているという風に、女王國の卑弥呼に騙されていたという事です。

 当然ながら、長江下流域の會稽東治から見て東に倭国がある、という認識になった訳です。

 なお、この認識は、魏の使者たちが意図的に行った、という説があります。その当時の長江流域は、魏のライバル国の呉の国の領域でした。そのために、敢えて日本列島を90度傾けて、呉の国を取り囲むようにして、プレッシャーを与えた、とする仮説です。

 しかし、私はこの説には賛同しません。なぜならば、會稽東治の東、というのは、倭国の風俗習慣の記述の中にあるからです。倭国が南の島だという誤った認識を持った魏の使者たちが、南国である事を強調したかったに過ぎないからです。仮に、呉の国にプレッシャーを掛ける目的があったのならば、邪馬台国の行程の記載の中で述べればよいし、後段の政治状況の記載の中で述べても良い訳です。ところがそうはなっていません。

 なによりも、魏志倭人伝ごときの記述で呉の国にプレッシャーを掛けられるはずはありません。魏の書物の内容を、呉の国の上層部がどうやって知る事が出来たというのでしょうか?

 ここは単純に、女王・卑弥呼の作戦に完全に騙された愚かな魏の使者たちだった、という事です。

 いかがでしたか?

倭国の風俗習慣についての記述は、まだまだ続きます。ただし、ちょっとつまらないですね? というのも、邪馬台国を特定した風俗習慣ではないからです。北部九州の伊都國に逗留しながら書いた報告書なので、ほとんどが北部九州に合致する内容なのです。

 もちろん、邪馬台国九州説支持者にとっては好都合です。それは、これら全てが邪馬台国に関するものである、と曲解してしまえるからです。しかし、これはいけませんね?

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