倭国は特別待遇 豪華な下賜品の数々

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、37回目になります。

魏の皇帝は、倭国の使者たちへ詔を下しました。そこには金の印鑑を与える旨の記述がありました。

魏の同盟国だと認められたのですね? そればかりか、倭国を特別待遇していた雰囲気が感じられます。それは、東アジアで金印が授与されたのは倭国日本だけで、高句麗や挹婁などの朝鮮人国家には授与されていないからです。

 今回は、金印の他にも下賜された絢爛豪華な品々を示します。

 まず、魏志倭人伝の全体像を示します。大きく3つの章に分けられており、

 最初は、諸国連合国家である女王國について。

次に、倭人の風俗習慣について。

最後に、女王國の政治状況について。

 となっています。魏からの下賜品の話は、この章に書かれています。

 これまでに読み進めた内容を要約します。

邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。

 女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。

 さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

 倭国の政治状況の章に入ると、一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國。卑弥呼に関する記述。さらに、女王國の周辺諸国の話となり、侏儒国というコロボックルが住んでいた地域、船で一年も掛かかる裸国や黒歯国の話へと続きました。

 前回からは、倭国の朝貢に対して、魏の皇帝からの詔の記述へと進みました。

まず、卑弥呼に対する親しみの言葉から始まり、倭国から持って来た朝貢品の内容。そしてそれに対する下賜品として、仮の金印を一時的に朝鮮半島の太守に預ける旨の記載がありました。

 今回、さらに魏の皇帝の詔は続きます。

  汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞

「汝の来使、難升米と牛利は、遠きを渉り道路勤労す。」

ここでは、魏の都・洛陽までやって来た使者たちを労っています。魏の皇帝は、現代日本語この様に言っています。

「使節団の隊長である難升米と副隊長の牛利は、遠くから渡ってきて道中、とてもご苦労さんでした。」

 そしてそれぞれに魏の国の官職を与えています。

  今 以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還

「今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して労ひ、賜ひて、還し遣はす。」

 難升米には「率善中郎将」、牛利には「率善校尉」という官職です。そして、銀の印鑑を実際にに見せてねぎらい、受け取って帰路につかせたとあります。ただし、ここで与えた銀の印鑑も「仮の銀印」となっていましたので、本物の銀の印鑑だったかどうかは疑わしいところです。

 ここまでで、魏の皇帝から倭国の使節団へのプレゼントは、「仮の金印」と「仮の銀印」だけですが、これだけではありません。次の記述に、驚くほど絢爛豪華な下賜品が記されています。

  今 以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 倩絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直

「今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じ貢いだ所の値ひに答ふ。」

これらは、倭国から献上された「男生口四人・女生口六人・斑布二匹二丈」というお粗末な朝貢品に対する返礼品だと言っています。とても豪華な織物類です。

 次に、これとは別に卑弥呼という個人に対して、特別にプレゼントすると言っています。

  又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口

  銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利

「また特に汝に、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜ひ、みな装ほい封じて難升米、牛利に付す。」

 卑弥呼本人には、特別に3点の織物類と、金を少々、鉄の刀2本、ブロンズの鏡100枚、朱丹や鉛丹という赤色顔料をそれぞれ50斤、プレゼントしました。いずれも女性が喜びそうな品々です。これらを丁重に包装して、難升米と都市牛利に渡した、とあります。確実に卑弥呼の手に届いた事でしょう。

 なお、品々の詳細については、次回の動画で述べる事にします。

 そして、念を押すような恩着せがましい言葉へと続きます。現代日本語風に訳すと、魏の皇帝は次のように述べています。

  還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

「帰ったならばこの品々を記録しておき、全てのものを倭国の民衆に誇示して、我が国が卑弥呼の事をいとおしく思っている事を知らしめなさい。その為に、こんなに丁重に、その方の好きな物をプレゼントしたのだ。」

 どうも魏の皇帝は、倭国の王様が女性だったからこそ、特別扱いしたようなきらいがありますね?

 なお、卑弥呼に贈られたこれらの品々の中で一般によく知られているのは、銅鏡百枚だけのように思えます。そのほかの下賜品については、あまり語られる事はありません。しかしながら、私は、「真珠鈆丹各五十斤」という赤色顔料を最も注目しています。織物類の詳細も含めて、これらのプレゼントの具体的な内容は、次回以降の動画で説明する事にします。

 いかがでしたか?

難升米という倭国の朝貢団のトップだった人物は、頻繁に登場しています。魏の都・洛陽に駐在していたり、魏の使者たちと一緒に倭国に戻って来たりしています。彼は女王國の中でもかなり上層部の人間だった事が分かりますね? 現代で例えるならば、アメリカ合衆国に駐在している日本大使のような存在だという事でしょう。それにしても、魏の皇帝はなんでこんなにも豪華なプレゼントをくれたのでしょうか? 単に国力を顕示したかっただけ、とも思えませんよね?

邪馬台国チャンネル

日本に文字は無かった?

 日本で文字が使われ始めたのは、五世紀~六世紀頃とされています。漢字が伝播した時期です。そうすると、邪馬台国の時代は三世紀ですので、まだ文字は無かった事になりますよね? これはちょっと無理があると思いませんか?

文字は無くても、なんらかの意思伝達手段がない事には、朝貢団など送る事は出来ないでしょう。それに、魏の皇帝からの詔という文章を、倭国日本に持ち帰っているのですから。女王・卑弥呼がそれを目にして、チンプンカンプンという事はないでしょう。それほど馬鹿ではありません。

 少なくともこの時代には漢字はある程度、入ってきていたでしょうし、それ以前にも何らかの別な文字があったのではないでしょうか? 「ホツマ文字」というのを主張される研究家の方もおられますが、それも可能性としてはあると思います。

 そもそも、漢字の伝来が五世紀~六世紀というのは、近畿地方に伝播したのがその時期だという事です。近畿地方は中国大陸からみれば、内陸部の奥地、もっとも文明の遅れた地域です。先進地域では、もっともっと早い時代に、すでに漢字は使われていたのではないでしょうか?

 特に日本海沿岸地域は、大陸文明が一早く伝来する場所です。その当時、日本海に沿って女王國という諸国連合国家が細長く伸びていて、最先端文明地域でした。そこは、近畿地方に比べて何百年も前に、漢字が伝来して使われていたのだと思います。

 但し、それを証明する考古学的史料が無いのは残念です。