こんにちは。八俣遠呂智です。
福井市立郷土歴史博物館で、卑弥呼の祭祀用器台を観察させて頂きました。
その際に、この土器が復元された際の報告書のコピーを頂きました。
タイトルは、「丸山古墳出土の器台について」です。
内容は二部に分かれており、卑弥呼の墓・丸山古墳についてと、発見されたこの祭祀用器台についてです。
今回は、祭祀用器台についての内容を読み上げて行きます。
なお、この土器は1954年に発見されて、復元されたのは12年後の1966年でした。その際に復元に当たった「沼弘 様」という方の報告です。
では、原文をそのままご紹介します。
器台について
上記のような状況(丸山古墳)のところから出土したものと考えられる。
土器は厚手で比較的大つぶな砂まじりのもので焼成は普通である。土器形式は古式土師器に相当するもので、全面に丹彩がほどこされ、筒部が欠損しているので明らかではないが、円形と方形?または三角形?(いずれとも判別しがたい)の透孔が上下2段にみられる。また上部内面と下部外面には、6本の条線を一組にした細い浅い繊細な沈線文がかかれ、少なくとも、蛇行状文と波状文の二種類の文様構図がみとめられる。
文様配列については破片なので明らかでない。また口縁部の外側につくり出した幅2mの垂直面には、上部5本、下部4本の櫛描平行文がみとめられる。櫛描文の施文具の巾は各2mmを計測する。
形状は鼓状に上下にひらき、上部巾27cm、下部巾21cm、推定筒巾7cmの装飾性にとんだ器台である。
器台は弥生時代中期以降に出現し、後期にいたってとくに発達普及する。しかし古墳時代に入ってからむしろ急速に衰退する傾向を示す。
須恵器器台をのぞくと、畿内、四国、九州など主に西日本に発達し、その形状、装飾も多様な大型器台が出現する。
いま、本古墳出土の器台をみるとき、その形状といい、透孔、文様、といい丹彩をふくめて非常に装飾性に富むことは興味深い。
本県内における今日までの埋葬遺跡からの器台の出土例は兎越山古墳群の15号墳から2例報告されているにすぎない。
この15号墳出土の器台は、一方に丹彩がほどこされている以外は一般の集落遺跡から発見されているものと同様小型で日常生活における「実用土器」と何ら異なるところがない。
したがって、本古墳出土の器台とは明らかに異なる。しかしながら実用土器に丹彩をほどこし何らかの別の機能を持たせようとしている事実は注目せねばならない。
埋葬遺跡から出土する丹彩された土器は単なる実用的性格から遊離し、埋葬にともなって使用された特別な性格をもつものとして出現するものと推察される。
おそらくは、祭祀用の供献器としての性格を強く持つものであろう。まして器台の出現と衰退がくしくも共同体の崩壊過程と階級社会の成立過程と同じくしていることは興味深い問題であろう。
今後、当地方における新しい事実と、研究が報告されるであろうが、数少ない遺跡を破壊することなく十分な保護対策と学術的調査が行われることを期待するものである。
先にのべたように、本遺跡も学術的発掘調査によってあきらかにされたものではなく、貯水池工事によって知られた遺跡である。したがって遺構、遺物などの状態があきらかでないのは非常に残念であるが、多少ともその資料の遺存によって、十数年を経過した今日消滅した丸山古墳について考察を行うことが出来たのは不幸中の幸いであったといわねばならない。
このように、1966年(昭和41年)に報告がされていました。
現在となってはかなり古い報告書ではありますが、当時としては画期的だったと思います。
なぜならば、卑弥呼の墓・丸山古墳から偶然発見されたのが1954年(昭和29年)で、復元されたのは12年後という、随分後になってからだからです。
沼弘様という研究員は、何らかの思想を持って調査され、復元されたのだと思います。
しかし残念ながら、せっかく復元したものの、その後も全く注目されること無く50年以上も眠り続けていたわけです。
この器台に塗られた朱丹については、成分検査も実施されていませんので、まずはそこから着手するところから始めるべきでしょう。
同じ福井県の小羽山30号墳という一世紀の墳丘墓から発見された朱丹には、中国・陝西省産の硫化水銀の成分が検出されています。邪馬台国時代よりも200年も前の時代のものです。
もし、この祭祀用器台からも同じように中国産の硫化水銀、または中国産の四酸化三鉛が検出されれば、この土器は間違いなく卑弥呼のものだと断定できます。また、丸山古墳という「徑百餘歩」の円墳が卑弥呼の墓、さらには越前が邪馬台国だったと結論付けされる事にもなります。
邪馬台国では現在、恐竜を観光の目玉にしているようですね。
JR福井駅は恐竜だらけです。
五年後を想像しました。
このあたりは、卑弥呼グッズで埋め尽くされている事でしょう。