特殊な墳丘墓

 これまで、邪馬台国時代(三世紀)の『鉄』の供給元を推察してきましたが、そもそも高志の国には、いつ頃から鉄が伝来したのでしょうか?

 それを解く鍵は、四隅突出型墳丘墓という特殊な形のお墓です。紀元前一世紀頃から出雲に現れる墳丘墓で、高志の国でも発見されています。

 この墳丘墓の起源は、朝鮮北部・中国大陸東北部とされており、鉄鉱石や石炭の産地と重なります。

 今回は、四隅突出型墳丘墓の中国大陸における起源や、日本における分布などについて考察します。

墳丘墓1
邪馬台国以前の大陸との交流

 邪馬台国・高志の国と中国大陸との交流を探るに当たり、明確な資料が残っている奈良時代から時代を遡って、検証してきました。

 この中で遣渤海使の史実は、日本海巡回航路という中国東北部との古来からの交流を示唆するものですので、鉄を含めた大陸文明伝来の大きな鍵となる事が分かりました。

 高志の大王・継体天皇の近畿征服や、新羅系渡来人たちによる大陸文化の流入、さらには三韓征伐の神話や、魏志東夷伝から見えてくる『鉄』の流通ルートを推察しました。

 では、これよりも前の二世紀以前はどうだったのでしょうか?歴史を遡れば遡るほど、解明の手掛かりは少なくなります。そんな中で、中国東北部と明らかな繋がりがある証拠が実在します。四隅突出型墳丘墓というお墓です。

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四隅突出型墳丘墓の起源

 四隅突出型墳丘墓は、この図の様に、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態です。

 この墳丘墓の起源は、現在の北朝鮮の慈江道(ちゃがんどう)という地域です。四隅突出型の積石塚(つみいしづか)という形で、三箇所発見されています。楚山郡(ちゃがんどうちょさんぐん)の蓮舞里(りょんむり)2号墳、時中郡(しじゅんぐん)の豊清里(ぶんちょんり)1号墳、および南坡洞(なむぱどん)33号墳です。紀元前一世紀ごろの造成とされています。

 ここは現在、北朝鮮の領域ですが、中国との国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)のすぐそばです。対岸の中国には、好太王碑のある中国吉林省通化市集安市があります。高句麗の時代に国境などは無く、近世の満州の時代まで、中国東北部の中心だった地域です。

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四隅突出型墳丘墓の日本での分布

 この四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期から古墳時代に掛けて、日本でも造成されています。分布地域は、山陰地方から北陸地方に掛けてです。朝鮮半島や中国大陸に最も近い九州では全く見られない墳丘墓です。

 墳丘墓の規模は、後の古墳時代前期の規模に近く、その当時の最も進んだ土木技術が駆使されています。当時の中国の技術が、九州を介さずに直接日本海沿岸に渡って来た証と言える、古墳の先駆者的存在のお墓です。

 これらの事から、四隅突出型墳丘墓は、高句麗からリマン海流、および対馬海流に乗ってやって来たボートピープル達ではなかったのか、そして、同時に「鉄」や「鉄器」を携えて来たのではなかったのか、と推測されます。

 四隅突出型墳丘墓の起源である中国東北部は、現在、北朝鮮領です。残念ながら、情報が閉じられているだけでなく、世界の最貧国ですので、遺跡の発掘や調査研究という考古学的な進歩は、期待出来ません。

 高句麗の日本海沿岸部の発掘調査は、ロシア・ウラジオストック近郊で僅かに行われているに過ぎません。

 邪馬台国・高志の国の原点とも言える地域の調査が、ほとんど手付かずという状態です。

 次回は、紀元前後の高句麗の状況から、ボートピープルが発生した理由や、日本海沿岸地方における四隅突出型墳丘墓の分布などを、調査します。