日本最古の超大国⑧

 八俣遠呂智へようこそ。

 記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は広大な天然の水田適地があった場所です。大規模稲作によって日本列島で初めて人口爆発が起こり、七萬餘戸もの超大国が出現したのです。

 前回は、古代の農業生産が高かった地域を、中世から近世に掛けての史料の中から推察しました。今回は、江戸時代の石高を基に、古代の農業生産が低かった地域、すなわち大きな国にはなれなかった地域を示します。するとそこからは、現代では考えられない意外な事実と、邪馬台国の場所が明確に見えてきます。

 弥生時代の農業生産力は、土地の成り立ちという「天然の水田適地」に依存しています。牛も馬もいなかった時代ですので、簡単に開拓開墾が出来なかったからです。また、土の質という点でも、田圃に出来る土壌とそうでない土壌とでは、大きな差がありました。それは、開拓開墾が進んだ江戸時代でさえも、各地の石高にその残像が残っています。

 前回は、徳川家康の時代に記された「慶長郷帳」から、水田適地の越前の国が、狭い面積ながらも相変わらず高いランクに位置していた事を示しました。この地に邪馬台国があった事は疑うべくもないでしょう。

 一方で江戸時代の農業生産の記録からは、水田稲作に不向きだった土地の傾向が顕著に表れています。広い面積があるにも関わらず、開拓開墾ではどうにもならない「水田不適地」だった地域です。

 今回、それらの水田不適地の中から三つの国を取り上げてみます。越後の国(新潟県)・筑前の国(福岡県北部)・日向の国(宮崎県)です。

 越後の国(新潟県)は、言うまでもなく現代では日本有数の米どころです。この地が水田には不向きな土地だったとは、到底想像がつかないでしょう。また、戦国時代の上杉謙信のイメージから、元々強力な勢力があったと勘違いされる方も多いのではないかと思います。ところが江戸時代初期までは、不毛の地と言ってよいほどの惨憺たる場所だったのです。

1604年の「慶長郷帳」に記されている石高は、わずかに45万石。同じ北陸でも遥かに面積の狭い越前の国が68万石だった事から見ても、その脆弱さはお分かり頂けるでしょう。

 この原因は、「水田不適地」というよりもむしろ、「開拓困難地」というべき場所でした。土地の成り立ち自体は、越後・新潟平野も、越前・福井平野も同じような経過を辿っていました。縄文海進の後の巨大な淡水湖によって、真っ平らな沖積層が形作られた土地です。この淡水湖の水さえ引けば、どちらも最高の水田適地になるはずでした。越前・福井平野の方は、弥生時代中期ごろにはほとんどの水が引いたので、人口爆発が起こり、邪馬台国という超大国が出現しました。ところが越後・新潟平野の方は、淡水湖の水がなかなか引かず、江戸時代になってもまだ湿地帯のような状態が続いていたのです。新潟という地名自体が、湿地帯を意味する「潟」から来ていますので、ご理解頂けるでしょう。

越後・新潟平野は、決して水田不適地という訳ではなく、水が引いて沖積層が表出するまでに、時間が掛かってしまったという訳です。実際に、江戸時代に入ると干拓技術の進歩によって淡水湖の水が引き始め、末期には広大な水田適地へと変貌しています。遅まきながら人口爆発が起こって、現代にみられる米どころ・越後・新潟の姿となったのです。

 なお、これは数値でも示す事ができます。江戸時代の石高推移のデータがありますので、後でほかの国々と一緒に示す事にします。

 筑前の国(福岡県北部)は、土壌の質の点で「水田不適地」だった場所です。中国大陸から水田稲作が伝来した土地ですので、先入観から水田適地が多いように思えますが、そうではありません。

 平野としては博多湾に面した福岡平野や早良平野、筑紫平野の甘木朝倉地域、遠賀川式土器で有名な直方平野、などの広大な平地があります。しかし「慶長郷帳」では、たったの52万石しかありませんでした。江戸時代になってもまだ、農業生産が低かったのです。

 この最も大きな理由は、土壌の質です。水はけが良すぎるのです。水田を作るには、水はけが悪くなければなりません。畔を作って田圃に水を溜めなければなりません。ところが水が抜け出てしまってはどうなるでしょうか?

水田にはならず、生産効率の悪い乾田、すなわち陸稲栽培になってしまいます。

構造上、博多湾地域では扇状地、筑紫平野地域では洪積地からできており、砂やシルト、石礫のような、粒子の大きな水はけの良い土地なのです。これではいくら雑木林の開墾を行ったところで、田圃にはできません。もちろん、三日月湖跡地や谷底低地のような局地的な水田適地はあったでしょうが、江戸時代の技術では大部分は田圃にする事は出来なかったのです。

 現代のようにブルドーザーを使って、土壌改良を行わない事にはどうしようもない土地だったという事です。

江戸時代でさえもこのような状況でしたので、邪馬台国の時代に、この地において人口爆発が起こっていたとは、到底考えられません。

 なお、この地域を邪馬台国に比定する論者は多いのですが、肝心かなめの「農業の視点」が欠落しています。文献解釈だけで古代史を議論するよりもはるか手前の考察が必要です。「国の基は農業なり」、という言葉を肝に銘ずるべきです。

 日向の国(宮崎県)もまた、土壌の質の上で「水田不適地」だった場所です。この地は、記紀に記されている天孫降臨から日向三代、さらには神武東征の舞台なった場所ですので、ここもまた弥生時代において強力な勢力があったと勘違いされています。また、現在の宮崎県は広々とした平野や、都城盆地が広がっていますので、農業生産は大きいと思われがちです。

ところが、「慶長郷帳」では、たったの29万石しかありません。開拓開墾が進んた江戸時代でさえもこの有様です。広大な平野とは明らかに不釣り合いな石高ですね。

この原因は、取りも直さず「黒ボク土」です。火山灰の上に繁殖した植物が腐植して出来た土で、リン酸成分が枯渇してしまうという、水田稲作には最悪の土です。田圃を開拓したところで、稲は育ちません。その代わりに水はけが良くて栄養豊富なので、畑作農業には適していますが、生産力では、農業の王様である水田稲作の足元にも及びません。

 日向の国もまた、筑前の国と同じように、局地的に水田適地はあるものの、広域的には大規模な土壌改良を行わない事には、水田地帯にはできません。江戸時代までの技術ではそうはいかなかったという事実が、慶長郷帳の石高に顕著に現れています。

 なお以前の動画で示しました通り、日向の国は馬の繁殖適地です。古墳時代あたりに、馬の力を活用した強力な勢力がこの地から出現し、神武東征という物語の元ネタになったと推測します。

 ではこれまでに示しました、越後の国、筑前の国、日向の国の、江戸時代における石高推移を示します。

まず越後の国・新潟県です。江戸時代初期には、たったの45万石しかなかった石高が、1872年(明治5年)の石高では115万石にまで跳ね上がっています。これは先に述べました通り、越後・新潟平野は、そもそも淡水湖があった場所ですので、水が引きさえすれば最高の水田適地になれる場所でした。江戸時代を通して干拓事業が行われて、現代にも通じる米どころとして成長を遂げたのです。

 次に筑前の国・福岡県北部です。江戸時代初期には、52万石しかなかった石高は、明治5年には63万石にまで増加しています。越後の国とは異なり、土壌改良という大工事を行わない事には水田に出来ない土地ですので、石高の伸びも低かったのでしょう。

 さらに日向の国・宮崎県です。江戸時代初期には、29万石しかなかった石高は、明治5年には42万石にまで増加しています。これも筑前の国と同じように、土壌改良という大工事を行わない事には水田に出来ない土地ですので、石高の伸びも低かったと言えます。

 最後に、弥生時代に最も優れた水田適地と比定した越前の国です。

江戸時代初期には、狭い平野ながらも68万石もあった石高です。これは日本全国を見渡してもトップクラスです。ところが、江戸時代末期になってもほとんど変わらず、69万石に留まっています。これは農地開拓を怠っていたからではありません。この地は元々天然の水田適地ですので、弥生時代から平野のほとんどが水田として利用されていました。そのため、江戸時代にはもはや開拓開墾する余地が残されていなかったという事です。

 では、この江戸時代の石高のデータから、邪馬台国時代の農業生産を推測してみます。

江戸時代初期から明治時代初期までの傾き、すなわち開拓開墾のペースが、弥生時代からずっと同じように進んできたと仮定して、グラフのスケールを変えて邪馬台国時代までを推測してみます。

すると、越後の国では、1872年(明治5年)には115万石もの大国になっていますが、西暦1400年頃の室町時代前期には、農業生産が無かった事になります。同じように、筑前の国では、63万石あった石高が、西暦300年頃の古墳時代初期、日向の国では、42万石あった石高が、西暦1100年頃の平安時代末期には、それぞれ農業生産が無かった事になります。

これらは、水田適地が無かった地域の悲しさで、邪馬台国があった西暦200年頃にはほとんど人が住んでいなかった事を物語っています。

 一方で天然の水田適地である越前の国では、69万石あった石高が西暦200年の邪馬台国の時代でもほとんど変わる事なく、60万石以上の農業生産があったと推測できます。

自然条件で水稲栽培に適した土地ですので、弥生時代から人の手を加える事なく、天然の状態でも十分に農業生産が上げられていたという事が明確になりました。

 現代でこそ、平地の面積がさほど大きくない越前・福井平野ですが、弥生時代には日本列島で最も豊かな農業生産力を持っていた場所だったのです。

 日本列島で人口爆発がどこよりも早く起こり、邪馬台国という超大国が出現したのは、間違いなく越前です。

 いかがでしたか?

江戸時代という僅か数百年前のデータとは言え、1800年前の邪馬台国時代の農業生産の様子が、手に取るようにわかるでしょう? 時代を遡れば遡るほど、人の手を加えなくても水田稲作が行えた天然の場所こそが、大きな国家が出現しえた場所だと言えます。

国の基は農業なり。中国史書や古事記・日本書紀を読んだだけで悦に入る前に、古代国家が成立する基本中の基本を学習してみてはいかがでしょうか?