纏向遺跡は邪馬台国ではない!

 纏向遺跡は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡です。三世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地とるす研究者もおり、邪馬台国の中心地に比定する説があります。

 先日も、「邪馬台国論争新たな段階、纏向遺跡で発見続々」と題したネットニュースが配信されました。(読売新聞 2018/6/20) しかし、すぐに削除されました。新聞記者自身が、愚かさに気がついたのでしょう。

 

 昨今の大きな話題は、2800個の桃の種の出土です。学者によっては、邪馬台国時代の占いに使われた決定的証拠と位置づけています。

 果たしてそうでしょうか?

魏志倭人伝には、そのような記述はありません。

『有薑・橘・椒・荷、桃支』などの木がある、とは記されています。ここでいう『桃支』は竹の一種です。また、占いについては、『其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火占兆。』、骨や亀の甲羅を使っていたと記されています。桃で占ったなど、どこにも書いてありません。

 

 纏向遺跡の出土品について、盛んに記事にするのには、理由があります。奈良県桜井市は、巨額の国家予算を使って発掘調査していますので、何らかの成果を上げなければなりません。成果が無ければ、予算がどんどん削られてしまうからです。新聞などのメディアを使って、大々的に『世紀の大発見』と

して発表しているだけなのです。そうすることによって、発掘予算の確保と、桜井市の観光振興に役立てている訳です。

 纏向遺跡からは、大量の土器と青銅器が発掘されています。これだけでは邪馬台国と断言できないので、桃の種2800個出土を曲解し、無知な新聞記者に記事を書かせているに過ぎません。

 要は、本当に邪馬台国であろうがなかろうがどうでもよく、センセーショナルな記事が欲しいだけなのです。

纏向遺跡
巨大な纏向遺跡だが・・・
桃の種
纏向遺跡から出土した桃の種
林・藤島遺跡
越前(福井県)から出土した鉄器二千点

  纏向遺跡は、邪馬台国ではありません。

最大の理由は、鉄の出土が皆無だからです。魏志倭人伝に『竹箭或鐵鏃』(矢じりに鉄を使う)とあるのにも関わらず鉄の欠片すら出土していません。

奈良県全域でも、邪馬台国時代の鉄は十数点しか出土していません。

 

 以前は、九州説の学者が『鉄』の存在をしつこく突いてきました。しかし、今は話題になるのを避けています。理由は簡単です。邪馬台国時代の鉄の出土が一番多いのは、高志(北陸地方)となったからです。九州説学者も説明が付かなくなり、畿内説学者っと共に『鉄』に触れないのが暗黙の了解になってしまいました。畿内説学者も九州説学者も、実用性のない銅鏡や銅鐸の分布を、未だに主張しています。

 

 ちなみに、高志(北陸の福井県)の林・藤島遺跡からは、1999年に2000点を超える鉄器が出土されています。

 ・桃の種 2800個

 ・鉄器  2000個

どちらの価値が高いでしょうか?

 桃の種の大騒ぎは、奈良県桜井市のマスコミ操作の上手さと、新聞記者のレベルの低さが招いた、愚かな事件でした。新聞記者っもそれに気がつき、すぐに記事を削除したのでしょう。

 

 纏向遺跡の役割は、周辺諸国から集まった開拓者達の管理窓口でした。当時は、奈良盆地の南部は巨大な淡水湖で、徐々に水が引き始めた頃です。まだまだ人口も少なく、これから巨大な水田地帯になるという思惑で、各地から人々が集まって来たのでしょう。淡水湖が水田地帯となった後は、纏向の役割が終わり、消滅してしまいました。

 

 奈良県を中心とする近畿地方には、邪馬台国はありません。近畿地方は、邪馬台国のライバルの『狗奴国』です。邪馬台国は、狗奴国の北にある高志(福井県)です。トンデモ説と思われるでしょうが、鉄器の出土だけが理由ではありません。

 

 最大の理由は、大規模農業が畿内よりも一足先に始まった事です。