抹殺できなかった歴史 上宮記 邪馬台国が書かれていた?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古事記や日本書紀よりも前に成立していた歴史書、「国記」や「天皇記」。その中には、私たちが知らない本当の歴史が書かれていた事でしょう。悪辣な藤原氏一族によって、邪馬台国の存在が闇に葬られてしまったのは本当に残念です。

 では、このほかにも古い歴史書は実在したのでしょうか? ありました。蘇我氏一族の歴史書とも言える「上宮記」です。今回は、この歴史書と、日本書紀で闇に葬るはずだった第26代継体天皇との関係を考察します。

 飛鳥時代の西暦645年、乙巳の変が勃発しました。中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺しました。その報を受けた入鹿の父親・蘇我蝦夷は、自らの命を絶つ際に、一緒に「国記」や「天皇記」という当時の重要な歴史書を焼き払いました。と、日本書紀には記されています。

 しかし、蘇我氏編纂の歴史書が無くなって喜ぶのは藤原氏の方ですので、この記述には疑問が残ります。

日本書紀は、乙巳の変の75年も後に書かれた藤原氏の息が掛かった歴史書です。「国記」や「天皇記」が失われたのは悪者・蘇我氏のせいだ、とすることで自らの正統性を強調したかったのでしょう。死人に口なしです。

 おそらく「国記」や「天皇記」には、藤原氏にとって不都合な事柄が書かれていた為に、蘇我氏ではなく藤原氏が燃やし尽くしたというのが真実です。

 では、「国記」や「天皇記」以外に、歴史書は存在しなかったのでしょうか? ありました。「上宮記」という書物です。この歴史書の存在はとても重要です。これがあったからこそ、藤原氏は輝かしい蘇我氏の歴史を、完全に無視はできなかったのだと推測します。

 上宮記は、正式名称を「かみつみやのふみ」といい、聖徳太子が青年期まで過ごした上宮(かみつみや)の歴史書であり、古事記や日本書紀よりも古いものと見なされます。既に散逸してしまった書物ですが、鎌倉時代末期に記された『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)や、聖徳太子平氏伝雑勘文(ショウトクタイシヘイシデンゾウカンモン)という歴史書に引用がある事から、その存在が知られています。

 あくまでも逸文ですので、全文が分かっている訳ではありません。

引用された箇所としては、聖徳太子に関する記述と、継体天皇に関する記述です。この事から、第二十六代・継体天皇から、その曾孫である聖徳太子までの歴史書ではないのか? という推測がなされています。まさに、蘇我氏一族の歴史書と言えます。実際に、蘇我氏の傍系血族によって保管されていたとされています。

 上宮記の存在はとても重要でした。それは藤原氏にとって、新たな歴史書・日本書紀に蘇我氏一族の活躍などは、本当は一切記述したくなかったのではないか? と推測できるからです。

 聖徳太子は、継体天皇の曾孫であると同時に、蘇我氏の傍系血族です。できる事ならば闇に葬ってしまいたい存在だったに違いありません。ところが「上宮記」が残っていたので、そうも行きませんでした。しかも「上宮記」は、藤原氏に味方した蘇我氏の傍系血族の屋敷に保管されていたのでした。

 藤原不比等としても、自分に味方した蘇我氏の傍系血族を蔑ろにする訳にも行かなかったのでしょう。

そこで上宮記をもとに聖徳太子をスーパースターにする事によって、蘇我氏傍系の不満が燻らないように、「ガス抜き」をした、ガス抜きの道具が聖徳太子だった。という事ではないでしょうか?

 大和王権のトップに1000年以上に渡って君臨し続けた藤原氏ですので、時代の要所要所で一筋縄ではいかないしたたかさを発揮していますが、聖徳太子を古代史のスーパースターに仕立て上げたのもまた、藤原氏ならではの超一流の世渡り術だったのかも知れませんね?

 さらに、本来ならば歴史の闇に葬るべき継体天皇を日本書紀に残したのも、上宮記の存在が大きかったのではないでしょうか?

 藤原氏のご先祖様は河内の馬飼職人として継体天皇と共に、6世紀の大和王権樹立に大活躍しました。それにも関わらず、磐井の乱で大失敗を犯した為に組織の末端で冷や飯を食わされたのは、誰あろう継体天皇のせいだからです。最も憎むべき相手は、蘇我入鹿ではなく、6世紀に酷い目に合わされた継体天皇でした。日本書紀の編纂において、最も消し去りたい存在。それは蘇我氏一族ではなく、継体天皇だったのです。

 ところがこれも、「上宮記」という歴史書が残っていたので、闇に葬る事が出来なかったのです。継体天皇から聖徳太子へと続く輝かしい蘇我氏一族の歴史が、蘇我氏傍系血族によって受け継がれていた為に、日本書紀の天皇系譜の中に残さなければならなかった、というのが事の顛末です。

 ただし、藤原不比等も一筋縄ではいきません。継体天皇の実績をことごとく排除して、ショボい天皇としました。本来、大和王権の初代天皇であって然るべき人物であるにも関わらず第26代天皇とし、近畿地方を征服したにも関わらず北陸地方から招聘した。という扱いにしてしまいました。その代わりに、自らの出身母体である日向の国の頭領が近畿地方を征服し、ヤマト王権の初代天皇になった、という物語を創作したのです。これが日本書紀に記された神武天皇であり、神武東征は藤原氏一族の東遷の物語なのです。

 日本書紀では第26代とされている継体天皇は、実は初代天皇です。考古学的にも文献史学的にも、実在性の確かな最も古い天皇が、継体天皇です。それ以前の25人の天皇たちは、作り話の神話の天皇です。

 神武天皇こそが初代であるという説に限らず、第10代・崇神天皇が初代であるとか、第15代・応神天皇が初代であるとか、古代史研究家の間ではよく議論されていますが、第25代・武烈天皇までは何の物的証拠が無いのです。あくまでも古事記や日本書紀という藤原氏の息の掛かった古文書だけの存在であり、架空の人物です。

 ところが第26代・継体天皇になると、古事記や日本書紀だけでなく、今回紹介した蘇我氏の歴史書・上宮記や、磐井の乱が起こった筑後の国の風土記、といった幾つもの古文書の記録があります。その上に、名前が記された銅鏡、陵墓から発見された棺が熊本産であったり、出身地である越前・福井県からは日本最古の金の冠・銀の冠が出土していたりと、実在性を根拠づける遺物が多数見つかっています。

 間違いありません。継体天皇こそがヤマト王権の初代天皇です。

それが藤原不比等によって改竄され、神武天皇が初代天皇とされたのです。

 このように、上宮記という蘇我氏が編纂した真実の歴史書こそが、日本の古代史にとって唯一の救いだったと言えます。もしこれが無かったならば、どうなっていたでしょうか? 日本書紀に聖徳太子は記されなかったでしょうし、第26代に継体天皇が記される事も無かったでしょう。神武天皇から始まる藤原氏の天皇系譜で埋め尽くされていたに違いありません。

 残念な事に、邪馬台国や卑弥呼の存在は、見事に闇に葬られてしまいました。もし上宮記が逸文ではなく、全編が残っていたならば、越前に邪馬台国があったという記述も見られたのではないでしょうか?

 上宮記は、鎌倉時代末期に記された『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)の後の時代には引用される事もなく、散逸した、すなわち失われた、となっています。一方で、既に燃やされてしまったという記録もありません。

もしかすると、現在もどこかに存在している可能性もありますね?

蘇我氏の傍系血族の末裔のお宅に、眠っているかもしれません。そうであれば、いつの日にか上宮記によって、邪馬台国の謎も解明される事でしょう。

 いかがでしたか?

上宮記に限らず、国記や天皇記も現存している可能性はゼロではありません。蘇我氏の蔵の中に眠っているかも?

但し、もし存在を公表したところで、世間一般は「偽書」と見なしてしまうでしょうし、宮内庁などの強力な圧力によって握りつぶされる可能性が高いですね? 神武天皇以来の万世一系を信じている輩が多数存在し、幅を利かせていますから?

実は私も、神武天皇が初代だと信じたいんです。2600年も続いている皇室は素敵ですよね? でも、ファンタジーはファンタジー、歴史は歴史です。