近畿は九州に勝る しかし邪馬台国にあらず

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿地方が日本の中心になったのには、理由があります。九州地方が日本の中心になれなかったのにも、理由があります。単に、地理的な問題ではありません。明らかな差異は、農業生産力があった近畿地方と、農業生産力がなかった九州地方です。前回は、天然の水田適地について、定性的に示しました。今回は、この差異を定量的、すなわち明確な数値で示します。この結果から、邪馬台国時代には、近畿地方は狗奴国だった事が分かります。

 近畿地方は、古墳時代からは間違いなく日本の中心地です。地理的には、決して日本列島の中心部ではないにも関わらず、この地にヤマト王権が誕生したのには、大きな理由がありました。

 それは、ほかの平野にはない特殊な地形によって、開拓開墾の必要がない天然の状態でも、大規模な水田稲作が行えた事です。すなわち、広大な水田適地が広がっていたという事です。

 この地は、弥生時代末期までは、全く鉄器が使われていませんでした。元々は

、「超後進国」だった地域です。しかしながら、自然の力が味方して、運よく日本の中心へと成長できたのでした。

 現在の河内平野と奈良盆地南部には、かつて巨大な淡水湖が存在していました。その湖水が干上がった事によって、べったりと平坦で極端に水はけが悪い、天然の水田適地が出現したのです。

 古墳時代には、まず河内湖の水が引き、百舌鳥古墳群に見られるような巨大な前方後円墳が次々に築造されました。河内平野は、「水田バブル」ともいうべき未曽有の好景気に沸き立ちました。

 飛鳥時代に入ると今度は奈良湖の水が引きます。そして中心地は、奈良盆地南部へと移りました。法隆寺で有名な斑鳩の地から明日香村に掛けての一帯が、新たに出現した天然の水田適地です。「水田バブル」は奈良盆地南部で起こり、飛鳥時代へと突入したのです。

 このように、近畿地方が日本の中心地になったのは必然でした。人口爆発が起こり、なるべくしてなったという事です。

 では古墳時代よりも前、すなわち邪馬台国の時代はどうだったのかというと、まだまだ淡水湖の水が引いてはおらず、日本列島を支配できるような大きな勢力にはなっていませんでした。

 その上に、中国大陸からみれば、日本海側が表日本、太平洋側が裏日本。すなわち、近畿地方は内陸部の地域ですので、鉄器文化をはじめとする先進文明が伝播してくるのがとても遅く、完全に取り残された後進地域でした。

 邪馬台国の比定地論争の第一候補の場所ではありますが、文明後進国だったという点と、農業生産という人口扶養力の点で、問題があります。魏志倭人伝には、邪馬台国の規模は「七万余戸」としるされていますが、それには到底満たないのです。一戸当たり6人住んでいたとすれば、42万人の人口。すなわち42万石以上の石高が必要です。

 河内平野と奈良盆地南部を合わせても、残念ながらそれだけの人口規模はありませんでした。その根拠をこれから示して行きます。

 河内平野と奈良盆地南部が、天然の水田適地であるという事実と、邪馬台国の時代にはまだまだ超大国になれるような規模ではなかったという事実を、数値で示します。河内平野を含む河内の国と、奈良盆地南部を含む大和の国の農業生産高の推移です。もちろん古代の農業生産は数値化されていませんので、近世の数値からの推測になります。

 参考資料として、日本で最初に正確な農業生産高が記された江戸時代初期の慶長郷帳と、明治時代初期の石高帳を用います。これら二つの資料から、江戸時代260年間の石高推移が分かります。この傾向から、1800年前の邪馬台国時代の石高を推測します。

 河内の国については、江戸時代初期に26万石だった石高が、明治時代初期には29万石に増加しています。また、大和の国は、江戸時代初期に44万石だった石高が、明治時代初期には50万石になっています。

それぞれの増加量は、3万石と6万石です。260年も掛けた割には、石高の増加が少ないですね。これは、この地域が古代から水田として利用されていた為に、江戸時代には既に高止まりしていたからです。

 すなわち、天然の水田適地だった事がこのグラフに表れているという事です。

 ではこの石高推移が古代から同じペースで続いて来たとして、邪馬台国時代まで遡ってみましょう。するとこのようになります。

 邪馬台国の時代には、河内の国に僅かに石高があっただけで、大和の国にはほどんどありません。この傾向は、古墳時代を経て、七世紀ころまで続きます。丁度、この時代に中心地は奈良盆地に移り、飛鳥時代が始まります。そして、大和の国の石高が河内の国を上回っているのが分かります。

 一方で、天然の水田適地ではなかった北部九州の傾向を示します。サンプルとして、筑後の国と筑前の国を取り上げます。筑後の国は、筑紫平野の筑後川下流域に位置しており、山門、八女、久留米など邪馬台国九州説における比定地となっている場所です。筑前の国は、魏志倭人伝に記されている奴国・博多湾沿岸地域や、伊都國・福岡県糸島市を含むエリアで、筑紫平野の筑後川中流域や直方平野も含む広大な地域です。

 筑後の国については、江戸時代初期に30万石だった石高が、明治時代初期には54万石に増加しています。また、筑前の国は、江戸時代初期に52万石だった石高が、明治時代初期には63万石になっています。

それぞれの増加量は、24万石と11万石です。江戸時代260年間に、石高の増加量が大きいですね。これは、この地域が古代から水田に適した土地が少なかった為に、江戸時代になってようやく開拓開墾が進んだ事を示しています。

 すなわち、北部九州は天然の水田適地ではなかった事が、このグラフに表れています。

 ではこの石高推移が古代から同じペースで続いて来たとして、邪馬台国時代まで遡ってみましょう。するとこのようになります。

 筑後の国、筑前の国、ともに邪馬台国の時代には農業生産が無かった事になってしまいます。

 これら四つの地域の石高推移を、一つのグラフにまとめてみます。

 このように、天然の水田適地があった近畿地方と、無かった北部九州地方。日本の中心となった近畿地方と、なれなかった北部九州地方。石高推移のグラフに顕著に現れていますね?

 しかしながら、邪馬台国時代の石高を見て下さい。河内の国に僅かな石高があっただけです。これでは、魏志倭人伝に記されている「七万余戸」という超大国・邪馬台国に比定するのは不可能です。近畿地方は、敵国である狗奴国が妥当でしょう。

 では、七万余戸もの超大国が弥生時代に存在していたのでしょうか?

存在していました。近畿でも九州でもありません。その国は、このグラフのような石高推移を示しています。邪馬台国時代にはすでに64万石以上の石高がありました。ここが邪馬台国です。北陸地方の越前の国・(現在の福井県)です。

 いかがでしたか?

古代国家を考える上では、農業の視点が不可欠です。農業生産力のある場所に人口爆発が起こり、超大国が出現する。これは、日本列島に限らず全世界で同じ事が言えます。エジプト文明しかり、メソポタミア文明しかり、インダス文明しかり、黄河文明しかり、長江文明しかりです。近畿地方もまた強力な農業生産があったが故に、日本の中心地となったのです。しかし残念ながら、邪馬台国ではありません。敵国の狗奴国です。