女王国? 狗奴国? 東海地方の立ち位置

 こんにちは、八俣遠呂智です。

東海シリーズの4回目。邪馬台国畿内説支持者にとって、東海地方はライバル狗奴国である、という位置づけです。

これは大した根拠はなく、奈良盆地や河内平野に対抗できる勢力は東海地方しかない、という情緒的なものです。現代の感覚で、大阪に対抗できるのは名古屋だ、といった感覚で説を唱えているに過ぎません。そもそも畿内は4世紀の古墳時代からの場所であり、3世紀の弥生時代末期はまだまだ僻地でした。同じように、東海地方の3世紀も僻地でした。僻地同士、ライバル関係だったのかも知れませんね?

 現代の東海地方のイメージは、名古屋という大都会を中心とした強力な工業地帯。農業では、濃尾平野の広大な水田地帯や、三河・駿河の畑作地帯も思い浮かびますよね?

 特に濃尾平野については、15世紀の戦国時代に織田信長の出現がありましたので、強力な農業生産があった事が窺えます。しかしそれよりも1200年も前の邪馬台国の時代はどうかと言うと、状況は大きく異なります。

 濃尾平野は良く知られているように、木曽川、長良川、揖斐川という三本の大河で形成された沖積平野です。

元々海だった場所に、山々からの粒子が細かく栄養豊富な土砂が運び込まれて、豊饒な農業生産が可能な土地になりました。水田稲作には最高の土地です。このような土地の成り立ちは、オーソドックスなもので、九州の筑紫平野や、大阪の淀川下流域、関東平野の利根川下流域など、現代に広大な平野を有する場所は、ほとんどがこのような成り立ちです。そしてそれらば全て、弥生時代には海の底や湿地帯でした。

 濃尾平野の場合も、現在よりもかなり内陸部にまで海が入り込んでいました。そしてその当時に水田稲作農業が行われていたのは、沿岸部の僅かな土地だけに限られていたのです。

 河川による沖積平野の場合、山々からの土砂は海に流れ込み、陸地が形成されていきます。沿岸部では、最初は湿地帯、それが乾いて草原地帯へと変化して行きます。この草原地帯こそが、水田稲作を行うのに適した土地です。ところが水田稲作が伝播する前の時代には、土地に人々の手が加えられない為に、木々が生い茂るようになり、やがて密林地帯へと変貌してしまいます。一旦密林地帯になった場所を開拓開墾するのは、弥生時代ではほぼ不可能です。なぜならば、牛や馬という動力が無い上に、鉄器という刃物も存在していなかったからです。

 結局、湿地帯が干上がったばかりの海岸線に近い場所でだけ、水田稲作農業が行われていました。

農業生産力が弱いという事は、国力が無かったという事。残念ながら古代の濃尾平野に強力な勢力が出現できる下地はありませんでした。

 濃尾平野の問題はそれだけではありません。三つの大河が頻繁に氾濫を起こします。現代のような巨大なダムや灌漑用水など、コンクリートで固めた治水整備をもってしても、この地域の洪水被害は深刻です。せっかく育てた作物も、収穫される事なく、濁流にのみ込まれてしまいます。そういう点でも、古代に於いて濃尾平野に強力な農業生産力は無かったと言えます。

 ただし河川の氾濫という事自体は、決して悪い事ばかりではありません。農業収穫で酸性化した弱った土を一定期間水没させる事によって中和し、さらに新たな土砂も積み上がりますので、栄養豊富な土地へと再生してくれる自然作用でもあります。典型的な例が、アフリカ大陸ナイル川下流域のエジプト三角州です。ここはかつては、毎年冬場にナイル川の増水によって氾濫し、水没していました。春になると水が引いて、再生された土地が蘇り、豊饒な農業生産があげられました。それによって、古代エジプト文明が発生したのは、とても有名な話ですよね?

 ところが濃尾平野の場合には、水没するのは冬場ではありません。夏から秋にかけてです。稲の生育期間や収穫期間という最も重要な季節に水没してしまうのです。これでは、たとえ土地が水田適地だったとしても、農業生産は上がりませんよね?

 このように古代における濃尾平野は、現代に見られるような豊饒な農業生産地帯ではありませんでしたので、この地に強力な勢力が出現する余地は無かったのです。

 これは濃尾平野に限った事ではなく、同じような成り立ちの九州・筑紫平野にも言える事です。筑紫平野に邪馬台国のような超大国が出現しなかったのは、そういう事です。

 邪馬台国畿内説を支持する人達は、濃尾平野を中心とする東海地方を邪馬台国のライバル狗奴国である、としています。

奈良盆地や河内平野は、濃尾平野とは異なり、淡水湖跡の沖積平野ですので、古代に強力な勢力が出現できる下地がありました。そして実際にヤマト王権が誕生しました。しかしそれは、4世紀以降の古墳時代からの話です。弥生時代にはまだまだ淡水湖の水は引き切っておらず、僻地のような場所でした。

 そんな畿内と濃尾平野を比べた場合、どちらも僻地でしたので、僻地同士、ライバル関係にあったのかも知れません。ところが中国正史・三国志の魏志倭人伝にまで記されている邪馬台国は超大国であり、それに匹敵する国が狗奴国です。畿内と東海では役不足ですよね?

 近畿地方の古代の農業生産力を見た場合、最も強力だったのは、琵琶湖沿岸・近江の国です。ここには伊勢遺跡をはじめとする顕著な弥生遺跡が存在しています。これは奈良の纏向遺跡をも上回る質の高いものです。近畿地方に強力な勢力があったとすれば、奈良盆地や河内平野ではなく、琵琶湖沿岸地域だった事でしょう。

 仮にこの地域に邪馬台国があったとした場合、ライバル狗奴国が濃尾平野だとするには、あまりにも貧弱です。農業生産力が弱すぎます。

 私の説はこれまでの動画で示しました通り、農業生産力の高い越前の地に女王の都・邪馬台国があり、日本海沿岸地域を諸国連合国家・女王國が支配していました。その支配は、琵琶湖北部にまで及んでおり、琵琶湖南部からがライバル狗奴国である。としました。これは、考古学的にも文献史学的にも、琵琶湖中部での文化的断絶がありますので、かなり筋が通っていると自負しています。

 では濃尾平野はどちらに支配されていたのでしょうか?

それは女王國サイドだったと推測します。

詳細は、次回以降に述べる事にします。

 いかがでしたか?

東海地方は近畿地方と同じように、五世紀頃から巨大古墳が造成されるようになりますが、実質的に歴史の表舞台に登場するのは、室町時代からです。それ以前は洪水だらけで使い物にならなかったのでしょう。戦国時代に強力な勢力が登場したのは、治水事業に成功して農業生産が飛躍的に向上したからにほかなりません。現代の大都会である名古屋もまた、東京や大阪と同じように、弥生時代には酷い僻地だったようですね?

そんな東海地方でも、文献史学上では強力な氏族の存在が描かれています。「尾張氏」です。

次回は、文献史学の観点から東海地方を眺めてみます。

東海地方は、北陸文化圏だった

 東海地方と近畿地方って、かなり近いイメージがありますよね?

新幹線で、名古屋から京都まで30分ほどですし、近鉄使って大阪までも一時間くらいです。

車でも、東名阪自動車道や名阪国道を使えば、名古屋からあっという間に奈良盆地に入れますよね?

なんかこういう現代の交通手段が先入観になっているので、古代史の状況を考える上での障害になっているような気がします。

 古代の東海地方と近畿地方とは、全然近くないですね。距離的な話ではなくて、古代の交通手段を考えた上での話です。

 距離的には、伊賀の国を通って奈良盆地に入る名阪国道を使うルートが最短距離になるのですが、山地が続く地域ですので、獣道しかなかった古代だとほとんど使い物にならなかったでしょう。

 江戸時代でさえも、整備された東海道はそんなルートではなくて、ずっと北側を迂回していますよね。岐阜県の関ケ原から滋賀県の米原に抜けるルートです。東海道新幹線も名神高速道路もこのルートです。

 古代もこのルートが主流だったのでしょう。すると、東海地方から近畿地方に入るには、一旦、北の方角に向かってから南下する事になります。

 琵琶湖の北側って、ほとんど日本海側の文化圏ですからね。

東海地方に近いのは、近畿地方ではなくて北陸地方だったんだなぁ~と、改めて思うようになりました。