なんで天皇の先祖が薩摩?

 中南部九州シリーズの総集編、第三弾です。

この地域の弥生時代を調査した中で、あまりにもトンチンカンな事例がありました。とはいってもそれは、どこの国でも、どの時代でも起こっている事例です。僅か百数十年前の明治時代に定められた事ですが、これは古代史を考える上で、とても重要な示唆を与えてくれました。

「歴史は勝者が書く。」という典型的な例が、薩摩でなされていたのです。

 中南部九州の弥生遺跡は、熊本県北部には顕著なものがあるものの、そのほかの地域では特筆すべきものはありません。弥生土器などの生活用具が出土している程度で、とてもとても王族が存在していたなどとは考えられません。ところが日向の国(宮崎県)からは、高千穂において瓊瓊杵尊の天孫降臨から神武天皇による東征という、輝かしい神話が記紀に記されていますので、弥生遺跡の状況とは明らかな矛盾があります。これは、前回考察しましたように、ずっと後の古墳時代の出来事とすれば、日向の国が天然の馬の繁殖適地である事からキッチリと辻褄が合います。

 しかし、全く辻褄が合わない遺跡もありました。それは、薩摩の国(鹿児島県)に存在している三つの陵墓です。一般に神代三山陵(かみよさんりょう)として知られており、現在も宮内庁によって管理されているれっきとした天皇家のお墓なのです。これはどう説明がつくのでしょうか?

 三つの陵墓は、日向の国・高千穂に天孫降臨した瓊瓊杵尊から三代の、天皇家のご先祖様のものです。いわゆる日向三代という神話の神々のお墓です。

 場所は、いずれも鹿児島県内で、ニニギノミコトの【可愛山陵(えのみささぎ)】、ヒコホホデミノミコトの【高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)】、ウガヤフキアエズノミコトの【吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ)】です。

 日本神話が日向の国で起こった事実だったとしても、どうしてそんなものが鹿児島県にあるのでしょうか?

 鹿児島県は、八世紀の奈良時代からの行政区分では、「薩摩国」と「大隅国」の二つからなっています。隣の日向の国とは一見関係が無さそうに思えます。ところが、それ以前は、鹿児島県と宮崎県、すなわち薩摩・大隅・日向の領域は、すべて日向の国だったのです。つまり鹿児島県もまた天孫降臨から日向三代、神武東征と続く日本神話の舞台だったと、言えない事もないわけです。

 しかしなぜ、日向三代の陵墓が三つとも鹿児島県なのでしょうか? 一つや二つ、宮崎県にあっても良さそうなものだと思いませんか?

 この答えは、「歴史は勝者が書く」、という一言に尽きます。いつの時代も万国共通の普遍的な話です。明治時代というわずか百数十年前でも、当たり前のように勝者が歴史を書いていた、その顕著な例が、日向三代の陵墓だという事です。

 鹿児島県も日向の国だったという事に目を付けた明治時代の宮内庁が、日向三代の陵墓を全て鹿児島県にしてしまったのです。

 では、明治時代の勝者は誰でしょうか? 言うまでもありませんね。明治政府の中枢部を占めた人物の多くが、薩摩出身です。彼ら自身が宮内庁に命じて強引に陵墓を持ってきたかどうかは分かりません。宮内庁は役人組織ですので、上の者の顔色を伺って物事を決める体質です。役人が権力者の喜ぶ顔が見たくて、忖度したのかもしれません。誰しも自分の出身地が歴史の始まりであってほしいという欲望がありますから。

 いずれにしても、明治維新という革命に勝利した薩摩出身者が、歴史を書いた、それこそが鹿児島県に存在する日向三代の陵墓なのです。

 なおこれらの陵墓には、考古学的な根拠は全くありませんので、あまりにも酷い曲解と言えます。

 この薩摩にある日向三代の陵墓治定は、日本書紀における神武東征の物語との共通点があります。それは、どちらも勝者が書いた歴史、という点です。

 以前の動画で、神武東征の神話は実は藤原氏一族の物語ではないのか? という推論を立てました。もちろん日本書紀にそんな事はどこにも書かれていません。あくまでも記紀編纂時にヤマト朝廷の重要ポストについた藤原氏一族が、自分の都合の良いように神話を書き連ねたという仮説です。

しかし今回中南部九州を調査してみて、あらためてこの仮説が正しいという認識を持ちました。

 僅か百数十年前の明治時代でさえ、あからさまに勝者の論理で、薩摩の国を日本の起源の地と定めています。

 現代でこそ、薩摩の国という権力者に忖度した事が手に取るようにわかりますが、1300年前の奈良時代ではどうだったのでしょうか?

同じように、奈良時代の人々が古事記や日本書紀を読んで、藤原氏という権力者に忖度した事を、手に取るように分かっていた事でしょう。いつの時代も、権力者に都合の良いように歴史が書かれるのは、当たり前のように行われています。

 明治時代には勝者の論理で、薩摩の地に陵墓を設け、奈良時代には勝者の論理で、日向の地を日本の起源の地と定めたと見なすのに、無理はないでしょう。

 古今東西、どうして人々は自分の出身地を起源としたがるのでしょうか?

朝鮮人が世の中の全てを朝鮮起源とする所謂「ウリジナル」は有名ですが、日本人も少なからずその傾向はありますね。邪馬台国論争でも九州説を主張する人は、決まって九州出身者です。もう少し視野を広げて、真摯に古代史を見つめてみては? と常々思いますが、なかなか「オラが村の邪馬台国」という思考からは抜け出せないようです。