狭い農耕地

 魏志倭人伝の中では、完全に飛ばされている出雲の国ですが、弥生時代の重要な遺跡や出土品は、多数発見されています。

 今回は、考古学的な視点の前に、国家成立の基本である農業の視点から出雲を見つめてみます。地学上、出雲の平野の成り立ちは、邪馬台国・高志の国と非常によく似ています。それは、対馬海流による作用です。

 中国大陸や朝鮮半島からの文物の流れだけでなく、農業・地学の点においても、日本海側に多大な影響を与えているのは「対馬海流」である事が浮き彫りになります。

 

狭い10
汽水湖跡の沖積平野

  この地図は、中国地方を中心とした地図です。

出雲の国は、ほとんどが山間部で占められており、日本海ぎりぎりまでせり出しています。色の薄い部分が平地ですが、明らかにほんの僅かしかありません。

 その中で、出雲平野、米子平野、倉吉平野、鳥取平野が、僅かながら平地になっている事がわかります。

 これらの平野のうち、出雲平野、倉吉平野、鳥取平野は、いずれも湖の湖底だった沖積平野で、同じような成り立ちをしています。現代でも、淡水と海水が混ざった汽水湖が残っているという、共通の名残りがあります。

 出雲平野には、宍道湖(しんじこ)や神西湖(じんざいこ)。倉吉平野には、東郷池。鳥取平野には、湖山池(こやまいけ)。という汽水湖がそれぞれ残っています。

 これらの平野の成り立ちは、日本海側の各地で見られます。高志の国の、福井平野、金沢平野、新潟平野などは、同じ理由で出来上がっています。以前の動画で解説していますので、ご参照下さい。

 ここでは、出雲平野についての成り立ちについて、示して行きます。

 この地図は、現代の出雲平野です。東側に宍道湖、西側に神西湖があります。

どちらも海水が混ざった汽水湖です。

 6000年前の縄文海進の時代には、この平野は全て海の底でした。その時代に対馬海流の影響で、西側に砂礫層が積みあがりました。縄文海進が終わると、この砂礫層によって水の出口が塞がれ、出雲平野全域が汽水湖となりました。

 2500年前ころの弥生時代には、ある程度の水が引き、汽水湖の湖底だった部分が顔を出し、沖積平野となりました。

 この成り立ちは、高志の国の金沢平野や新潟平野と全く同じで、現代でも汽水湖が残っている事でも共通しています。ただし出雲平野の場合、汽水湖の水引きが比較的早く、弥生時代後期には水田稲作に適した農耕地となっていたようです。

 全く同じ理由で、倉吉平野や鳥取平野も、弥生時代には僅かながらも平地が顔を出していたようです。

狭い30
米子平野は砂地

 これに対して、米子平野は、汽水湖の水引によって出来た平野ではありません。砂礫層がなだらかに積み上がって出来た平地です。その為、沖積平野のような栄養豊富な泥質の土ではない上に、水はけが良すぎるので水田稲作には不適格な土地です。

 これは、この地が縄文海進の影響よりも、対馬海流が渦を巻くように流れている為に、海砂が徐々に集積して出来上がった為です。

 いずれにしても、出雲の国の平地は、対馬海流抜きには出来上がらなかった土地ばかりです。

 そして、大規模水田稲作をするには、十分な平野はなく、一点集中型の超大国が出現出来る環境ではありませんでした。

狭い40
出雲の主な遺跡

 もちろん、ある程度の規模の国家は存在していたでしょう。

発見されている遺跡からも、その事が分かります。

主な大集落遺跡としては、出雲平野の弥生集落遺跡群は、質・量とも、ほかの地域を圧倒しています。

 そのほかに、米子平野の青木遺跡、米子平野と倉吉平野の中間に位置する妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)、そして、倉吉平野と鳥取平野の中間に位置する青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)などがあります。但し、これらは山間部の集落跡ですので、出雲平野以外では、汽水湖の水引が比較的遅かったと見られます。

 なお、出雲の遺跡には、必ず四隅突出型墳丘墓が発見されており、朝鮮半島や、中国大陸東北部との関わりを強く感じることが出来ます。具体的な墳丘墓群については、順次追求して行きます。

 

 出雲の国には、このほかに山口県萩市を中心とする平地や、島根県益田市を中心とする平地があります。しかし、これらは河川による沖積平野である上に、面積的にもごく僅かしかありません。弥生時代には、農耕地として利用できる土地ば微々たるものだったようです。必然的に弥生遺跡にも特筆すべきものは見つかっていません。

 次回からは、投馬国(但馬)から不弥国(北部九州)への行路に従い、通過する国々の具体的な遺跡を例に挙げながら特徴を示して行きます。まずは、因幡の国(鳥取県)についてです。