一世紀~三世紀

 西暦一世紀から三世紀(弥生時代末期)までの、邪馬台国、最盛期の時代です。

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勢力範囲年表 一世紀~三世紀 [邪馬台国]

 八世紀の日本の書物と、三世紀末の中国の書物を基本にして推測して行きます。今回は、三世紀までの主な出来事を挙げます。

 一世紀頃に、高志(越前)で大規模農業が始まり、巨大国家が出現します。出雲では、淡水湖の干拓工事という、国造りが始まります。

 二世紀頃に、高志が勢力を拡大し、九州・朝鮮との同盟関係が結ばれます。

 三世紀には、高志の邪馬台国が日本海側の主軸となり、中国の魏へ使者を送ります。

 今回は、ここまでの勢力図を地図で示して行きます。

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一世紀の各地の様子 [邪馬台国]

 これは、一世紀頃の様子です。勢力区分として、高志(越)、出雲、九州、近畿の四地域に大まかに分けてあります。

 まず、近畿地方は、この頃はまだ、巨大な淡水湖や扇状地が多く、まだまだ水田稲作の農業生産は多くありませんでした。淡水湖沿岸での小規模農業を営んでいた国でした。

 北部九州地方は、密林地帯や砂地の土地が多く、水田稲作は三日月湖跡のような場所に限られていました。必然的に多くの小国が林立する地域となっていました。

 高志は、現在の越前・福井平野に近畿地方以上の巨大な淡水湖がありましたが、一足先に干拓工事に成功しました。水田稲作の大規模農業地帯となり、一極集中型の巨大国家が出現しました。これが、ヤマタ国です。また、同じ時期に朝鮮からの鉄の伝来もありました。

 出雲もまた、小さいながらも淡水湖地帯でした。出雲国風土記によれば、朝鮮半島や、高志の国の力を借りて、国造りが行われ、高志と同じような一極集中型の国家が成立しました。同じ時期に朝鮮からの鉄の伝来もありました。

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二世紀の各地の様子 [邪馬台国]

 二世紀頃の様子です。

 近畿地方は、巨大淡水湖の水が引き始め、水田稲作に適した土地が広がりました。必然的に、一極集中型の国家が成立しました。これは、「狗奴国」という「ヤマタ国」のライバルの出現です。

 北部九州地方は、多くの小国が林立した為に、小競り合いが多く、「倭国大乱」という戦乱状態となってしまいました。

 高志のヤマタ国は、自ら開拓した出雲を植民地化して、勢力を九州あたりまで、拡大しました。

 出雲は、ヤマタ国の属国という子会社のような役割で、ヤマタ国の支援を受けながら、九州や朝鮮との中継貿易地として発展しました。

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三世紀の各地の様子 [邪馬台国]

 三世紀頃の様子です。

 近畿の狗奴国は、巨大淡水湖の干拓工事に成功し、勢力を拡大し始めました。強力な国家となり、古墳時代という近畿地方の黄金期が始まります。

 北部九州地方は、高志のヤマタ国の巨大な勢力の影響で、倭国大乱が収まり、「高天原」という勢力に統一されました。

 出雲は、九州・高天原や、朝鮮半島との同盟関係を結び、高志のヤマタ国の属国として十分な働きを見せました。

 高志のヤマタ国は、卑弥呼や壱与の時代を迎え、北部九州を含めた最も勢力範囲の広い、強力な時代を迎えました。中国の魏へ使者を送ったのは、この頃です。

  卑弥呼の死後、北部九州で倭国大乱が再発しますが、卑弥呼の宗女・壱与の活躍で収束しました。

 また、気候の良い近畿地方へ南下したいヤマタ国と、近畿の狗奴国との間には、常に戦闘があったようです。

 今回は、高志(越前)に邪馬台国が出現し、北部九州まで勢力を伸ばした様子を図示しました。

 魏志倭人伝にも記されている通り、邪馬台国と狗奴国は、この時代の強力な二大大国で、ライバル関係でした。