弥生遺跡の宝庫

 邪馬台国があった越前・福井平野において、弥生時代後期の遺跡、墳丘墓、出土品などの現地散策を行っています。

 これまでに、『邪馬台国の散策(1)~(3)』の実写動画で、卑弥呼の墓や、鉄器工具を使った翡翠工房遺跡を紹介しました。

 今回、邪馬台国の全体像を俯瞰し、まとめてみました。現地調査で分かった事は、弥生時代の出土品が意外に多かった事だけでなく、出土品と地名の関連性の強い地域が多く、邪馬台国が越前にあった事を実感しました。『金津』『丹生』『麻生津』などです。

弥生宝庫1
邪馬台国は越前

 これは、近畿地方を中心とした地図です。

邪馬台国があったのは、北陸地方の越前・福井県です。弥生時代中期までは淡水湖だったこの地域が、弥生時代後期には水田稲作に適した最高の農地となりました。越前の淡水湖は、近畿・狗奴国の奈良湖と河内湖の二つを足したものよりも、広大でした。弥生時代末期の邪馬台国時代における水田稲作農地は、日本一巨大な広さでした。爆発な人口増加と巨大国家出現は、必然だったのでしょう。

 詳しくは、私が以前に作成した動画『超大国は意外な場所だった』などに示しましたので、ご参照下さい。

弥生宝庫2
巨大淡水湖跡の平坦な福井平野[邪馬台国]

 この地図は、現代の越前・福井平野の地図です。北側の日本海への出口は、6000年前の縄文海進の時代に、対馬海流によってできた砂礫層で塞がれています。平野でありながらも、盆地のような形状になっています。また、河口から30キロ上流までの標高差が10mしかありません。ここが弥生時代中期までは巨大な淡水湖で、平坦で、栄養豊富で、水はけの悪い沖積層で形成されています。古代においては、密林を伐採する必要も無く、大規模な水田稲作には最高の土地でした。

 現在の福井市中心部は、この地図の中央の少し下です。

 以前の動画で紹介しました「卑弥呼の墓」と、「林・藤島遺跡」の位置は、この辺りです。

 弥生時代末期・邪馬台国時代の遺跡や墳丘墓は、この平野の周辺を沿うように分布しています。

弥生宝庫3
邪馬台国の墳墓の分布図

 この地図は、越前・邪馬台国で発見された主な墳丘墓と古墳の分布図です。弥生時代から古墳時代までの「お墓」の数は、4000基ほどだそうです。近畿地方と比べて、決して多くはありません。しかし、農閑期の秋から冬にかけて、雪に閉ざされてしまう日本海側では、古墳造成は容易ではありません。そんな中で、これだけの古墳が造成されたのは、強力な勢力が存在していた証拠です。

 弥生時代の遺跡・墳丘墓の集中している地域は、福井市の九頭竜川流域と、鯖江市の日野川流域です。

邪馬台国の中心だったと見られるのは、九頭竜川流域です。翡翠などの宝石加工工房、鉄製工具2000点、鉄剣類多数、鍛冶場跡、環濠集落跡、そして直径120mの卑弥呼の墓など、邪馬台国の条件に一致しています。

弥生宝庫4
豊富な弥生時代の遺跡[邪馬台国]

 そのほか、弥生時代の銅鐸で全国で唯一、船の絵が描かれた銅鐸が発見された「井の向遺跡」、継体天皇が生まれ育った「高向」、及び卑弥呼一族の古墳群などがあります。

 また弥生時代の興味深い遺跡も多数あります。しかも出土された品と古代からの地名が一致する、「金津」、「丹生」、「麻生津」、「三国」などなど、興味をそそられる地域が満載です。

 近畿や九州とは異なり、越前が「邪馬台国」とする認識はほぼ皆無なので、手付かずの宝箱のような場所です。調査すればするほど、新たな発見があり、興味が尽きません。

 次回は、邪馬台国の全体の風景が見渡せる場所で、実写した映像を紹介します。『足羽山』という、福井市街地から程近い、標高100mの小さな山から見渡した邪馬台国です。