魏志倭人伝は正しい⑨

魏志倭人伝に記されている邪馬台国への行路には、距離の記載もあります。起点である朝鮮半島の帯方郡から7000里として、倭国へ向かっているのです。ところが、距離が正確であるとして行路を辿って行く事は出来ません。なぜならば、極めて多くの矛盾を内在しているからです。

 今回は、記された距離を出来るだけ正確に受け入れて、邪馬台国までの行路を辿る実験をしてみます。

正しい910
対馬と壱岐

 魏志倭人伝に記されている距離が正確である、と言う前提に立って比定地を定めようにも、明らかに正確ではなく、矛盾が生じている記述があります。

 それは、対海国(対馬)と一大国(壱岐)の大きさの記述です。

魏志倭人伝には、対馬と壱岐の大きさについて、次のように記されています。

「至對海國 ・・・ 方可四百餘里」

至る対海国・・・方可四百余里

「至一大國 ・・・ 方可三百里」

至る一大国・・・方可三百里

 「方可」の意味を「一辺の長さ」とすれば、対馬と壱岐の長さの比は、4:3となり、対馬がわずかに大きいことになります。

ところが実際の大きさはこの図を見ても分かる通り、長さの比はおよそ4:1で、対馬が圧倒的に大きいのです。この一つの例だけをとって見ても、魏志倭人伝の距離の記載には誤りがあり、正確さに欠ける事が分かるでしょう。

正しい920
距離のバラツキ

 また、そもそも「里」という距離の単位がどれくらいの長さを表しているのかも分かりません。古代中国には、短里(75m)と長里(450m)の二種類があったようですが、どちらにも適合しませんし、行路によっても変わってしまいます。

 例えば、帯方郡~狗邪韓國、つまり現在のソウル市近郊から釜山市近郊までの距離は、現代の単位では700kmほどです。この距離を魏志倭人伝には、7000里と表現していますので、一里あたり100メートルとなります。

 一方、狗邪韓國から対海国、つまり釜山から対馬までの距離は50kmほどで、倭人伝には1000里と表現されています。つまり、一里あたり50メートルとなります。

同じように、対海国(対馬)から一大国(壱岐)まで、一大国(壱岐)から末蘆国(伊万里)までも、1000里と記載されていますが実際の距離は50キロほどです。つまり、一里あたり50メートルです。

 このほかにも魏志倭人伝の距離の値には、たくさんの矛盾がみられます。

このような状況ですので、距離の記載が正確だとして邪馬台国までの行路を辿っていくのは、非常に困難です。

正しい930
古代の技術は進んでない

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B: 古代中国の測量技術は、とても進んでいたという説がありますね? 戦争をする時に、三角関数を使って戦場の地形を測定していたって、聞いたことがあります。

 

A: 確かにそうですね。古代中国の技術は、当時は世界最先端だったのでしょう。

 

B: そうだとすれば、帯方郡から狗邪韓國までの直線距離を計算していたかも知れませんよね?

その場合、一里が50メートルくらいになるので、ほかの行程とも一致しますよね?

 

A: んー、それはどうかな? 測量技術が使われたのは、あくまでも局地戦の話で、何十キロ・何百キロもの広域で使われたわけではないですから。そもそも、そんな技術があったら、対馬と壱岐との大きさだって、正確に測れていたはずでしょう? 実際には、とんでもないバラツキが出ていますからね?

 

B: そっかー?

 

A: それに、1800年前にそんなに技術が進んでいたのなら、正確な地図だって作れたはずでしょう? 中国が正確な地図を作ったのは、ほんの100年前なんですよ?

 

B: えええー?

でも、ある歴史作家さんは、「古代の技術は、現代人が想像もできないくらい進んでいた」って言っていたんですがねぇ?

 

A: あははー、歴史作家の話など真に受けちゃ、ダメよぉー?

技術を理解している人など、誰もいませんからー。

 

B: はい。肝に銘じます!

正しい940
1000里を基準

 話を元に戻します。

このように、魏志倭人伝の距離の値は、どうしようもなく不正確です。あえて距離が正確だとして行路を推定するとすれば、何らかの基準を設けなければなりません。今回は、一つの例として、対馬海峡を横断する際の距離を用います。

 狗邪韓國(釜山)から対海国(対馬)まで1000里、対海国から一大国(壱岐)まで1000里、そして一大国から末蘆国まで1000里となっています。三つとも1000里ですので、これらが丁度フィットする行路を考えてみます。

 すると、釜山から対馬までの最短距離、対馬から壱岐までの最短距離、壱岐から伊万里または宗像までの距離が、ほぼ同じ長さになります。これらの長さはそれぞれ約50キロです。つまり、一里は50メートルとなります。

 そこで、一里が50メートルである事を基準として、末蘆国から先の行路をみてみましょう。

正しい960
伊都国

 末蘆国の場所が佐賀県伊万里市であるとしたケースで考えてみます。すると、次の目的地・伊都国までは500里、すなわち25キロ先の地点は、福岡県糸島市、あるいは、有明海沿岸地域になります。

 方角としては「東南」となっていますので、有明海へ向かうべきですが、以前に検証したように、極端な無理が生じてしまいますので、ここでは、糸島市が伊都国であると比定します。

正しい951
奴国

 次に、伊都国から奴国です。これは、100里となっていますので、5キロ先の地点です。

すると、博多湾沿岸地域となります。ここは金印をはじめとする弥生遺跡の宝庫ですので、奴国と比定できるでしょう。

 なお、邪馬台国時代に奴国の中心地がどこだったのかは不明ですので、博多湾全域を奴国とします。

 この時点で、方角は二回修正しています。それは、末蘆国から伊都国へは東南方向となっていますが、北東方向へ進んでいます。また、伊都国から奴国へも東南方向となっていますが、北東方向へ進んでいます。つまり90度修正しているのです。

正しい980
不弥国

 次は、奴国から不弥国です。これも100里となっていますので、5キロ先の地点です。

 奴国の始点を博多湾沿岸地域の端の地点とすれば、太宰府市、飯塚市、および宗像市などが候補に挙がります。

 不弥国は、次の行路で水行20日となりますので、山側の太宰府市や飯塚市ではないと思われます。これを考慮すれば、海に面していて、古代海人族がいた事でも有名な宗像市エリアが、不弥国の比定地として最も有力となるでしょう。

 なお、魏志倭人伝での行路の方角は「東」となっていますが、先ほどの奴国までに適用した修正を用いると、方角は「北」となりますので、これとの一致も見られます。

 さらに不弥国から先は、水行20日で投馬国、水行10日・陸行1月で邪馬台国となっていますので、日本海を対馬海流に乗った沖乗り航法で進んで行くことになります。

 いかがでしたか?

魏志倭人伝の記されている距離に正確に移動しようとしても、その根本的な部分で矛盾が生じてしまい、先へ進めなくなってしまいます。今回のように、一里が何メートルに相当するかという基準を設ける事で、なんとか邪馬台国への行路を描けるようになります。

 魏志倭人伝を正確に読む、などと言う古代史研究家が多いですが、そういう事自体に無理があるのではないでしょうか?