出雲平野

 古代出雲は、山陰地方全域を指しますが、その中心部は、現在の出雲平野です。出雲平野は、出雲大社のある出雲市があり、弥生時代の墳墓群や土器、銅器、鉄器などの出土品が豊富です。

出雲平野1
現代の出雲平野

 

 この地図は、現代の出雲平野です。山陰地方で最も広い平野ですが、それでも縦5km、横15kmという小面積です。この平野の成り立ちを調べると、水田稲作に適した土地である事が分かりました。

 まず6000年前の縄文海進の際に、平野部は全て海の底でした。この期間に西側の開口部は、対馬海流の影響で砂礫層が積み上がりました。縄文海進が終わると、この地域は淡水湖となり、山々からの栄養を含んだ土が堆積して行きました。弥生時代後期には、この淡水湖の水が引き始め、平坦で水はけが悪く栄養豊富な沖積平野が出来上がりました。


縄文出雲
縄文海進時の出雲平野
出雲平野2
出雲平野は、淡水湖になった。

出雲平野3
邪馬台国時代の出雲平野

1800年前の卑弥呼の時代には、現在とほぼ同じ平野が広がっていたようです。現代で考えれば非常に狭い平野ですが、弥生時代末期の邪馬台国の頃には、中規模くらいの国と言える存在でした。

 当時の状況を比較すると、近畿地方は淡水湖や扇状地でした。北部九州は、平野部は密林地帯、沿岸部は砂質土でした。出雲は、狭いながらも平坦な沖積平野でした。近畿地方が古墳時代に一気に黄金期を迎えたのは、淡水湖の水抜きを行い、広大な沖積平野を手に入れたからです。それによって、大規模農業が発達しました。出雲は、近畿よりも一足早く淡水湖跡の沖積平野を手に入れた、という点では、近畿や九州よりも一歩先んじていたと言えます。


出雲平野3
出雲平野は、狭いながらも穀倉地帯だった。

 残念ながら、出雲平野の規模では、超大国と言える規模の農業生産は得られません。弥生時代末期の、三番手、四番手くらいの国力だったと思われます。出雲平野の成り立ちは、邪馬台国の成り立ちに共通している、と考えられます。