日本最古の超大国④

 記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は広大な天然の水田適地があった場所です。日本列島で初めて人口爆発が起こり、七萬餘戸もの超大国が成立したのです。弥生時代の田園風景は、現代のような開拓・開墾によって造られた水田とは、全く異なった状況でした。前回までに、天然の水田適地の構造的な根拠と、日本列島における有力な超大国の場所を特定しました。今回は更なる考察を行い、邪馬台国の場所を特定します。

 日本列島における天然の水田適地を、前回までに考察した内容に従って、日本全国を俯瞰してみます。この中で、古代史の主役は、近畿地方と九州地方である事に疑いの余地はありませんので、この二つから入って行きます。

 まずは近畿地方です。

 この地図は、大阪府と奈良県を拡大したものです。

この地域の典型的な水田適地には、大阪東部の河内平野と奈良盆地南部があります。いずれも古代には淡水湖があり、それが干上がって水稲栽培に最適な土地となった場所です。湖の規模が大きかったので、水が引いた後に表れた沖積平野の規模も非常に大きなものでした。ヤマト王権が出現することになった礎とも言える農業地帯で、まさに広大な天然の水田適地でした。

 河内平野は古墳時代の日本の中心地。奈良盆地は飛鳥時代の日本の中心地。であることに異論を唱える余地はないでしょう。

 日本列島には、関東平野・濃尾平野・筑紫平野といった近畿地方以上に広大な平野もありますが、その中で、なぜ近畿地方が日本の中心地となったのか? その答えが古代に存在していた淡水湖、そしてそれが干上がって出来た天然の水田適地にあったのです。

 なお、弥生時代には、これらの水田適地はまだ湖の底でしたし、現在の大阪の中心部は海の底でした。また、奈良盆地の北部は扇状地ですので、大きな勢力が出現できる環境ではありませんでした。

 もう一つの古代の中心地と目される九州地方を見てみましょう。この中でまとまった一定規模の平野があるのは、福岡平野、筑紫平野、直方平野、菊池盆地、熊本平野、八代平野、人吉盆地、都城盆地、宮崎平野、などがあります。

 この内、直方平野、菊池盆地、人吉盆地、都城盆地、以外は、河川による沖積平野ですので、面積の割に水田適地は狭く、古代に超大国が出現した可能性はありません。また前回示しました通り、直方平野は日本全国に水田稲作を伝播した弥生文化の原点とも言える場所ですが、頻繁に水没したために、繁栄するには至りませんでした。

九州南部の人吉盆地と都城盆地は、黒ボク土の地質ですので、水田稲作には適しません。残るは、菊池盆地だけになってしまいます。

 これらの天然の水田適地という観点からは、九州では菊池盆地が最有力候補といえるでしょう。

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B: 天然の水田適地にこだわっているけど、九州は、開墾で水田を広げていったんじゃないの?

だって、鉄器の出土が多いから、それを使って筑紫平野を開拓したとは思いませんか?

 

A: 確かに北部九州での鉄器の出土は多いですね。それを使って農地を開墾したかも知れません。しかし弥生時代に、大規模に開拓できたとは、到底思えません。

 

B: えっ、なぜ?

 

A: それは、水田を造るのが、生易しいものではないからです。木々を伐採して、根っこを掘り起こして、地面を真っ平にして、畔を作って、用水路を作って、水を引く。少しばかりの鉄器があったところで、焼け石に水です。

 

B: そうかなぁー?

 

A: それに、弥生時代には牛も馬もいませんでした。重い物を動かす動力が無かったのです。これは致命的です。人力だけでの開墾もあったでしょうが、ほんのちょっぴりだったと思います。

 

B: ふーん?

 

A: 開墾が始まったのは、馬が伝来した5世紀ころからと言われています。また、日本列島全域で水田稲作が行われるようになったのは、室町時代の15世紀頃だと言われています。邪馬台国時代の1200年も後の事ですね。それほど水田を造るのは大変な作業だという事です。

 

B: そっかー。鉄器があっただけでは、まだまだ開拓・開墾なんて出来なかったんでしょうね?

A: そうねぇ? 近畿地方なんて、鉄器を持っていなかったのに日本の中心地になったでしょ?

開墾の必要のない天然の水田適地が、たまたま運よくそこにあったからです。鉄器を使って開墾したわけではありません。邪馬台国時代の農業を考える上では、鉄器の存在はあまり重要ではないのです。

 

B: なるほどー。

 話を元に戻します。

日本列島の天然の水田適地を、近畿、九州以外でも見てみましょう。

まず、中国・四国地方です。ここは、全体的に平地が少ないです。瀬戸内海沿岸地域では、広島県や岡山県の沿岸地域に平地があるものの、河川による沖積平野ですので、弥生時代にはまだ海の底でした。ある程度の規模がある水田適地としては、楯築遺跡などの個性的な弥生土器の出土がある総社盆地があります。

 一方、日本海側では出雲平野に最も広い水田適地があります。ただし元々面積が狭い上に、弥生時代にはほとんどが湖の底で、現在の四分の一程度の平地しかありませんでした。

 総社盆地といい、出雲平野といい、弥生遺跡の多い場所に水田適地がありましたが、規模としては非常に狭く、超大国が出現したとは思えません。

 なお四国には、大国が出現できる規模の水田適地はありません。

 そのほか、濃尾平野、関東平野、富山平野は、河川による沖積平野ですし、新潟平野や金沢平野は弥生時代にはまだ湖の底でした。また、東北地方の各地は気温が低い為、品種改良された現代の稲のような生育は期待できません。たとえ広い平野があったとしても、弥生時代には大きな収穫は無かったでしょう。

 そんな中で唯一候補に残るのが、福井平野です。ここは、淡水湖跡の沖積平野で、現代でこそ特に広い平野ではありませんが、弥生時代には日本有数の水田稲作地帯だっと考えられます。

 これらの事から、邪馬台国の場所が、広大な天然の水田適地があった場所とすれば、本州では福井平野、九州では菊池盆地が最有力候補として残ります。

 いずれも邪馬台国時代の鉄器出土の多い地域ですが、先ほど述べましたように、それは根拠にはなりません。

 あくまでも、七萬餘戸という超大国があったとの条件にマッチする農業大国という事です。

なお、日本列島の収穫量の目安となる最も古い資料には、平安時代の延喜式の公出挙稲(くすいことう)の束数があります。ここには、福井平野を含む越前の国、および菊池盆地を含む肥後の国、が、最上位にランクされています。

 延喜式という資料自体は、邪馬台国時代よりも900年も後のもので、開拓・開墾が多少進んだものではありますが、古代の水田稲作を推測するには十分参考になるものです。

 地形的な天然の水田適地が、実際の数値にも表れている例と言えるでしょう。

 邪馬台国は、菊池盆地か?福井平野か?どちらでしょうか?

菊池盆地については、魏志倭人伝に記された行路を曲解する必要があったり、大和王権と結びつく根拠が希薄だったりと、様々な理由から候補から落としました。

一方で福井平野については、水田適地という一つの根拠だけでなく、これまで示して来ました様々な根拠があります。

次回は、福井平野の成り立ちについてと、数値に残る農業生産高について述べて行きます。