邪馬台国の大王の前線基地 狗奴国を侵略

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの24回目。邪馬台国時代の女王國とライバル狗奴国との境界線は、琵琶湖の中部です。北部に投馬国と邪馬台国、南部に狗奴国という構図になっていました。そして卑弥呼の死から250年後の6世紀初頭、邪馬台国は遂に狗奴国の征服に乗り出しました。記紀には第26代天皇とされている越前の大王・男大迹王、継体天皇です。彼もまた、琵琶湖北部地域とは密接な繋がりがある人物です。

 弥生時代末期の日本列島における諸国連合国家・女王國は、日本海沿岸地域でした。この中で重要なのは、七萬餘戸という最も人口が多く都とされる邪馬台国です。次に重要なのは、五萬餘戸という2番目に人口の多い投馬国です。この2国は女王國の同盟国です。一方で、敵国だった狗奴国は近畿地方です。河内平野や奈良盆地という古墳時代に中心地になった場所を含む広域な勢力ですが、弥生時代の中心地は近江の国の野洲川流域でした。

 女王國と狗奴国という敵対していた勢力関係の最もクリティカルな地域は、琵琶湖でした。北部に邪馬台国と投馬国、南部に狗奴国という位置関係です。魏志倭人伝に記されている両者の戦いは、琵琶湖に於いて繰り広げられていたという事です。さらに次の時代である古墳時代に入っても両者の対立は続きました。そして6世紀に邪馬台国の大王・継体天皇が狗奴国を征服する事で決着が付き、奈良盆地にヤマト王権が誕生して、日本列島全域を治める国家が成立したのです。

 この継体天皇の誕生から狗奴国征服までの時代には、琵琶湖北部地域はとても重要な役割を果たしていました。

まず5世紀の中頃、邪馬台国・越前の王女だった振姫は、投馬国の支配地域だった琵琶湖の北西部・高島の地に嫁いで来ます。この地で誕生したのが男大迹王・継体天皇です。応神天皇の五世孫とされています。継体天皇の幼少期に、父親である乎非王(おひのおおきみ)が亡くなった為、越前に戻ってその地の大王になったとされています。

 これらは日本書紀に記されているストーリーですので、信憑性には乏しいものの、邪馬台国と投馬国という同盟国同士の婚姻関係を結んだという点や、琵琶湖北部と越前という日本海勢力同士の親密な関係性を考える上では、納得の行くものです。

 そして高嶋という場所は、近畿地方を征服するには絶好の位置にあります。琵琶湖を挟んで南側に位置する狗奴国の中心地と対峙できただけではなく、後方の峠を一つ越えればそこは日本海。小浜という港がありますので、万一戦に敗れたとしても、邪馬台国へ戻るにも投馬国へ戻るにも好都合です。また、日本海地域からの物資の後方支援という点でも優れています。

 日本書紀における継体天皇の系譜に信憑性が無いとしても、地政学的に高嶋の地を近畿地方侵略の最前線として活用していたと考えるには、十分な説得力がありますね?

 継体天皇が近畿地方の侵略を開始する前には、東海地方の豪族・尾張氏が姻戚関係を持ったとされています。邪馬台国・越前の強力な勢力が近畿征服に乗り出した事を悟って、慌てて娘・目子媛を継体天皇に差し出したのです。このストーリーも地政学的に納得できます。琵琶湖と東海地方を繋ぐ経路は、現在の米原から峠を越えて関ケ原へ抜ける路になりますが、この地域は古代氏族・息長氏の地盤です。すなわち卑弥呼のモデルとされる神功皇后の出身母体です。

邪馬台国・越前の近畿侵略に際して、それに味方しない事には、次は我が身が侵略されてしまう。という強い恐れがあったのでしょう。尾張氏は、すぐさま娘を差し出したのです。

 この尾張氏の判断は正しかったようです。後に継体天皇が近畿征服に成功して、天皇に地位に就いたのですが、その後継者に目子媛の息子たちが即位しているのです。日本書紀の上では、第27代・安閑天皇と、第28代・宣化天皇です。

 一方、日本書紀の上ではヤマト王権の大伴金村らが、継体天皇の前に仲哀天皇4世孫である丹波の国・倭彦王(やまとひこのおおきみ)を招聘しようとしたとあります。ところがこの人物の器が小さかった為に、応神天皇5世孫である越前の大王を招聘した事になっています。この信憑性はともかく、招聘しようとした人物が、投馬国・丹波の大王であり、邪馬台国・越前の大王だったという点に着目すべきでしょう。どちらも女王國に属していた国々です。仮に日本書紀の記述が正確であり、継体天皇による近畿征服ではなくて招聘されたのが事実だったとしても、その当時の大和王権にとって、女王國を構成していた邪馬台国や投馬国の存在は強大であり、招聘せざるを得なかった状況が窺い知れます。

 継体天皇が琵琶湖北西部・高嶋の地を拠点としていた考古学的根拠も存在しています。それは、鴨稲荷山古墳から出土した冠です。6世紀前半の古墳とされており、最古級の絢爛豪華な金銅製の王冠です。もちろんこれだけでは、この地が近畿征服の拠点としていた根拠にはなりません。ポイントは、越前から高嶋に至るルートに、最古級の王冠が出土している事です。琵琶湖から峠を越えた若狭湾・小浜の地からも同じような金銅製の王冠が出土しています。十善の森古墳という6世紀前半の古墳です。さらに継体天皇の出身地の越前・二本松山古墳からは、日本列島でも最も古い金の冠、銀の冠が出土しています。5世紀前半のものなので、継体天皇よりもさらに古い時代のものです。

 つまり、邪馬台国があった越前には、卑弥呼や宗女・壹與の後も王族の系譜が続いていた事を如実に物語っています。それと同時に、継体天皇の時代になってから、越前を旅立って若狭の小浜、峠を越えて琵琶湖の高島というルートを通って近畿侵略に乗り出した様子も、王族の冠の出土状況から明確に見えて来るでしょう。

 越前・二本松山古墳から出土した日本で最も古い金の冠・銀の冠からは、別の側面も見えてきます。これらの冠は、朝鮮半島の百済や伽耶の王族の墓から出土しているものと、ほぼ同じ形をしているのです。これは何を意味するのでしょうか?

この考察は、次回以降に持ち越す事にします。

 いかがでしたか?

琵琶湖を取り巻く古代史を考察すると、超後進地域だった近畿地方にも、6世紀以降になってからようやく文明開化が起こった経緯が見えてきます。それ以前には、河内平野や奈良盆地にて巨大古墳の造成にうつつを抜かし、完全に孤立していた近畿地方。排他的で新しい文化を受け入れなかった狗奴国。そこに風穴を開けたのが、継体天皇を中心とした日本海勢力であり、琵琶湖を通ってやって来た侵略者たちだったのです。

 若狭湾の小浜から琵琶湖の高島に入って畿内に至るルートは、鯖街道として有名ですね? 若狭湾で取れた鯖を京都に運んだ事から付けられた名称だそうです。このルートは鯖だけでなくて、古来から近畿地方へ色々な文物が入って来る道だったようです。継体天皇の近畿征服ルートもそうですが、飛鳥時代や奈良時代の遣隋使や遣唐使が中国から帰って来るルートだったりします。これは現代もお祭りとして残っていますね? 小浜のお水送り、奈良のお水取りです。それから平安時代には、東南アジアから初めて「象」を輸入して、その上陸地が小浜で、鯖街道を通って京都まで運んだそうです。現代で例えるならば、横浜の港と東京都心部を結ぶホットラインみたいな存在だったようですね?