編年の問題点

 発掘調査で見つかった遺物の年代鑑定は、「編年」と呼ばれる一般的な方法が用いられます。

土器の形式や地層などを比較して推定する方法です。日本全国で山ほど行われている発掘調査ですので、お金と時間の掛かる最先端技術を、いちいち使ったりはしません。よほど世間が注目する遺物でない限りは。当然、編年による鑑定結果は、大きな誤差が孕んでいます。

 今回は、「編年」によってなされる年代推定の様々な欠点について述べて行きます。

問題点00
調査報告書

 全国各地にある自治体の教育委員会が運営する埋蔵文化財センターには、発掘調査報告書が山ほど置かれています。

各地の開発事業に先立って行われた発掘調査を、一冊から数冊の冊子にまとめて編集し、全国に配布されているのです。通常は無料でいくらでも閲覧できますので、一度お近くの埋蔵文化財センターを訪ねてみてはいかがでしょうか。

 私が初めて発掘調査報告書を閲覧した時は、あまりに膨大な資料の数と、報告書の内容の濃さに圧倒されました。

日本全国で発掘調査に携わっておられる皆様に、感謝です。

 さて、これらの報告書の99%は、「編年」による年代推定がなされています。土器の形式や地層などを比較するオーソドックスな方法です。この編年によって出土品の年代が考察されています。

 初めて調査報告書を見た時は、「なんて理論的で説得力があるんだ!」と感心したものですが、読み慣れて行く内に、報告書の内容に多くの疑問を持つようになりました。

 今回は、私が感じた疑問の内、3点について述べて行きます。

1.標式土器

2.地層の年代

3.指標となる遺物

問題点10
標式土器

 まず、標式土器に関する疑問です。

新たな土器が出土した場合に、標式土器と比較・検討するのが年代推定の基本です。

標式土器とは、形や紋様や製法が共通で、広いエリアで発見できる土器で、流行した時期を特定できる物差しの役割です。

日本列島各地に、色んな年代毎の標式土器があります。これによって、

1.年代区分の基準 や

2.地域区分の基準 となります。

出土した土器の年代推定には、標式土器と比較する事は、作業の流れとしては正しいと思います。しかしながら、大きな問題を孕んでいます。それは、物差しとなる土器の年代が本当に正しいかどうかという点です。

基本中の基本である「物差し」自体に大きな誤差があれば、すべての土器の年代推定に誤りがあるという事になります。

 この標式土器は、地層の年代や、土器の進化の状況、隣接地域との比較などによって、60年以上前に設定されたものです。それが現在でも広く使われているのです。

 よほど世間が注目する遺跡でない限り、個々の土器の年代推定を正確には行いません。

そして、「放射性炭素年代測定」のような科学的手法を用いた場合には、年代が数百年も修正された例もあります。

 現時点でこの問題を提起したところで、予算的な事情もあり、どうにかなる問題ではありません。

 いずれにしても、現段階では土器の年代推定を「事実」として捕えない事には、古代の日本の姿を全く語れなくなりますので、妥協するしかないという状況です。

 この問題については、様々な要因が複雑に絡まっていて、簡単に説明できるものではないので、また別の機会に細かく検証する事にします。

問題点20
地層の反転

  次に地層の年代です。基準となる標式土器の年代推定にも用いられていますが、弥生時代の数十年スパンの年代推定を行うには、大きな誤差を伴います。

これは、長いスパンの時代の変遷、すなわち、縄文時代、弥生時代、江戸時代、という時間的に広いスパンの地層では、かなり有効です。しかし、弥生時代の前期、中期、後期という数十年から数百年のスパンでは、地層から年代を推定するのは難しいでしょう。

 それは一つには、地層の反転現象です。新しい遺物が深い地層に、古い遺物が浅い地層に逆転してしまうことが頻繁に起こっているからです。古代においては、現代では考えられないほど頻繁に洪水がありました。洪水は表面だけではなく、深い地層までも攪拌してしまいます。それによって、地層の時代の反転現象が起こるのです。

 もちろん、専門家である調査員の皆様は十分承知の上で、年代鑑定をしているのでしょう。しかし、私が「発掘調査報告書」を精読した限りは、鑑定の甘さを感じる事がしばしばあります。

 現実問題として、調査員の方は膨大な量の出土品を毎日鑑定している訳ですから、地学の専門家をいちいち呼んで、正確な地層の年代までも調査する余裕がないという事でしょう。

 結局、遺跡と出土品が、どれだけ世間から注目されているかで、年代鑑定の正確さが高まる、となってしまいます。

問題点30
指標遺物

  3つ目として、指標となる遺物からの年代鑑定です。

弥生時代で特に多いのは、青銅鏡からの年代です。中国で作られたものには、年号が書かれている事が多く、そこから年代推定が行われます。「貨泉」という中国の新の時代に作られた青銅製のお金も指標になっています。

 ここでの大きな問題点は、青銅鏡や貨泉は、王族たちの宝物だという事です。手に入れてから何十年も何百年も土の中に埋めずに手元においてあった可能性が高いという事です。

 あるいは、王族がほかの地域の王族を征服し、支配した場合、宝物も一緒にその地に移動した可能性もあります。

問題点40
越前から持ってきた

 例えば、弥生時代の古墳とされる大阪府高槻市の安満宮山古墳(あまみややまこふん)です。ここから出土した方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)は、古代中国の・魏の年号「青龍三年」の銘が入っています。まさに邪馬台国時代に中国・魏から下賜された鏡の可能性がある日本で最も古い銅鏡です。

 この青銅鏡をもって、安満宮山古墳を三世紀末の邪馬台国時代と推定していますが、果たしてそうでしょうか?

邪馬台国よりもずっと後の時代に、ほかの地域の王族が、この地を支配して持ち込んだものではないでしょうか。

それは、大阪府高槻市、枚方市、茨木市のこの一帯は、越前の大王・継体天皇が支配していた地域だからです。樟葉野宮という都を置いた場所と、今城塚古墳という継体天皇の墓の中間地点に位置します。

 越前で家宝とされていた青銅鏡を、近畿地方を征服した際に一緒に持ち込まれたものと推測できるのではないでしょうか。

 もう一つの疑念は、この古墳からは、鉄刀や鉄斧も出土している事です。文明後進国だった近畿地方では弥生時代の鉄器出土はほとんどなく、この古墳が非常に稀な鉄器出土地の一つとされています。

 これもまた、実は後の時代に「鉄器王国だった先進地域の越前から持ち込まれたもの」と考える方が自然に思えます。

 このように、個性的な遺物を年代鑑定の指標にしてしまうと、当時の政治状況を無視し、現実と乖離した年代鑑定になってしまうのです。

問題点41
編年の悪用

 これらのように「編年」と呼ばれる一般的な年代鑑定の方法には、多くの問題点があります。

この問題点を悪用した有名な事例があります。奈良県の「箸墓古墳」です。箸墓古墳は、日本最大の弥生集落遺跡の纏向遺跡の中にあります。

当初は、四世紀中ごろの古墳とされていましたが、「編年」という年代鑑定のあいまいさに目を付け、いつの間にか、100年も古い三世紀中ごろと改変されてしまいました。

 三世紀中ごろとは、卑弥呼が亡くなった時期です。つまり、邪馬台国は近畿にあり、中心地は纏向遺跡であり、卑弥呼の墓は箸墓古墳であるという、結論ありきのストーリーを描いたという訳です。

 このストーリーの中では、箸墓古墳は三世紀中ごろでなければならないので、「編年」の解釈を捻じ曲げたのです。あってはならない事ですね。

 このように、「編年」というオーソドックスな年代鑑定には多くの問題点があります。また、出土品の発見状況も千差万別で、全く違う時代の遺物が同じ場所から見つかる事も多いようです。宝物をまとめて埋葬したのかも知れませんね。

 こういった問題を解消する手段として、最先端科学技術を用いて年代鑑定がなされています。「放射性炭素年代測定」などです。

しかしながら、ここにもまた多くの問題点が存在しています。

 次回は、そこに焦点を絞って、考察して行きます。