卑弥呼の墓① 弥生の墓は 小さい

 現在、「卑弥呼の墓 発掘プロジェクト」を推進しています。その中で、なぜそこが卑弥呼の墓? という質問を多く頂きます。

 簡単に言えば、1.邪馬台国の中にある事 2.徑百餘歩の円墳である事 3.弥生時代の遺物が出土している事、の3点が上げられます。邪馬台国の比定地の問題は別として、弥生時代の大きな円墳は、日本全国を探してみても、ほとんどありません。おそらく、この背景写真の丸山古墳以外には、どこにも存在しないでしょう。

 今回は、卑弥呼の墓の前提として、弥生時代の墳丘墓の基本的な事項を整理します。

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古代の墓

 古代のお墓と言えば、古墳時代の巨大な前方後円墳を思い浮かべるのではないでしょうか。五世紀頃に築造された、800メートルを超える大仙陵古墳をピークとして、四世紀~六世紀頃の日本全国各地に、数多く見られます。では、この時代よりも前の弥生時代には、どのようなお墓が作られていたのでしょうか。

今回は、その基本的なところから入ります。

 まず一般的な呼称ですが、弥生時代に作られたお墓を「墳丘墓」、古墳時代に作られたお墓を「古墳」と呼びます。

どちらも平野部に盛り土をして作る事が基本ですが、弥生墳丘墓や、初期の古墳には、山を切土して作られたお墓も、数多く存在しています。また、日本海側のように冬場に雪の降る地域では、平地での盛り土のお墓はほとんど無く、主に山の形状を利用した切土のお墓が多いようです。これは農閑期の天気が、日本海側と太平洋側では極端に異なる事が原因とみられます。

 なお、古代に築造された大きなお墓は、農地の開拓・開墾の残土を利用したもの、という説が一般的ですが、私はそうは思いません。この根拠は、また別の機会に述べる事にします。

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弥生墳丘墓の特徴

 では弥生時代のお墓、すなわち墳丘墓の特徴です。

大きく2点あります。まず、

・古墳のような巨大古墳はなく、かなり小さい

  もちろん弥生時代全期間を通して見ると、徐々に巨大化しており、古墳時代に近い三世紀には一辺が50メートルを超える方墳も出現しています。

そして、

・前方後円墳のような全国的に同じ形状のお墓がない。地域ごとに個性あるお墓はあるものの、統一された形状ではなく、各地でバラバラです。

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方墳と円墳

 墳丘墓の形状の基本は、ざっくりと分けて二種類、四角い形をした方墳と、まーるい形をした円墳です。

方墳にはさらに、方形周溝墓、方形台状墓、四隅突出型墳丘墓などに分けられます。

方形周溝墓は、平地に盛り土で四角い墓を作り、周辺に溝を掘って築かれたものです。弥生時代では最も多い形状です。

方形台状墓は、山地や丘陵地の形状を利用して、切土を行って四角い形状にしたお墓です。

四隅突出型墳丘墓は、四角いお墓の四隅がヒトデのように伸びた奇妙な形状で、平地の盛り土、山地の切土の両方です。山陰地方と北陸地方だけに見られる形状で、中国大陸東北部の高句麗があった地域が起源であるという説が有力な、興味深いお墓です。また、この四隅突出型墳丘墓のヒトデの足の一本が伸びて、古墳時代の前方後円墳の原型になったという説も有力です。

 一方、円墳には、円形周溝墓があり、方形周溝墓と同じように、平地に盛り土で円形の墓を作り、周辺に溝を掘って築かれたものです。円形の墳丘墓はたくさん見つかってはいますが、比較的小規模なものが多く、王族の墓と見られるのはごく一部に限られています。

 これら方墳や円墳の大きさは、大きいものでも50メートル程度ですので、古墳時代とは比較にならないほど小粒です。卑弥呼の墓は魏志倭人伝に、「徑百餘歩」と記されており、80メートルから150メートルほどの円墳が想定されますので、当時としては最大規模だった事が分かります。

 なお、奈良盆地の箸墓古墳、ホケノ山古墳、勝山古墳などの纒向古墳群は、巨大な前方後円墳で、三世紀の弥生時代のものとされていますが、ここでは無視します。それは、そもそも四世紀の古墳とされていたものが、纏向遺跡が注目され始めてから、突然100年も年代推定を繰り上げて、邪馬台国時代のものとしたからです。年代推定の内訳には、かなり疑問が残りますので、ここでは従来通り、古墳時代のお墓として扱います。

 では、これらの墳丘墓の分布を示します。なお、ここではあくまでも王族の墓と見られる比較的大型な墳丘墓を基準とします。小型の墳丘墓であれば、日本全国様々な形状がある事を付け加えておきます。

 まず、北部九州です。この地域は方形周溝墓が多く存在していました。吉野ケ里遺跡に見られる墳丘墓は、南北約46メートル、東西約27メートルという長方形で、高さが4.5メートル以上もある、この地域では最大級のものです。

 また、卑弥呼の墓と比定される事の多い、福岡県久留米市の祇園山古墳は、南北約22.9メートル、東西約23.7メートル、高さ約6メートル。福岡県糸島市の平原古墳は、南北14m、東西18mの小規模なものです。

 これらは、弥生墳丘墓としては大きい方ですが、残念ながら卑弥呼の墓は徑百餘歩の円墳ですので、サイズが小さすぎますし、形状も違います。

 次に、山陰地方です。この地域には、四隅突出型墳丘墓が見られます。島根県と鳥取県だけで、70基以上も発見されています。騎馬民族・高句麗が起源とされていますので、リマン海流、対馬海流の作用によって、日本海側に流れ着いたのでしょう。なお九州では、四隅突出型墳丘墓は一基も発見されていません。

具体的な場所としては、島根県出雲市の西谷3号墳は、南北の約30メートル、東西の約40メートル、高さ約4.5メートルという大規模なものです。

 中国山地を隔てた内陸部の吉備の国・岡山県では、楯築遺跡(たてつきいせき)があります。その中に、双方中円形墳丘墓という特殊な円墳が見つかっています。直径約50メートル、最大長が70メートル以上もあるという当時としては最大規模の墳丘墓です。この墳丘墓からは、吉備の国特有の特殊器台・特殊壺だけでなく、出雲地域と同じような土器類や棺が見つかっていますので、日本海側から峠を越えて文化が伝来してきたと考えられています。

 北陸地方では、山陰地方と同じような四隅突出型墳丘墓が見られます。形状はよく似ているものの、貼石がないなどの北陸特有の形状です。福井県福井市の小羽山30号墓は、長さ27m・高さ2.7mという大規模なもので、鉄剣など副葬品と共に、遺体のまわりには丹と呼ばれる硫化水銀が撒かれていました。こちらも騎馬民族・高句麗との強いつながりを感じます。

 北陸地方と山陰地方の中間地点である但馬・丹後・丹波という投馬国エリアでは、どういう訳か四隅突出型墳丘墓が発見されていません。その代わりに、大型の方形周溝墓が分布しています。京都府京丹後市の赤坂今井墳墓は、南北39メートル・東西36メートル・高さ4メートルという大規模なものです。ここからは、様々な宝石類の副葬品が発見され、さらに三重県・丹生鉱山産の辰砂から調製された朱が敷きつめられていました。

 そのほかの地域には、残念ながら大規模な弥生墳丘墓は発見されておらず、10メートル以下の小さなお墓に限られています。

 なお繰り返しになりますが、近畿地方の三世紀築造とされる前方後円墳は無視しました。小さなお墓しかなかったこの地域に、突然巨大な墳丘墓が出現するのは極めて不自然です。吉備、丹後、越前などの巨大墳丘墓の影響を受けながら、次の時代に巨大古墳が築造されたものと推測します。

 これらのように、弥生墳丘墓は古墳時代の巨大古墳からは見劣りするものの、50メートル規模の大規模なものでした。しかし、魏志倭人伝に記されている卑弥呼の墓、「徑百餘歩」となると、どこにも見当たりません。

 私は、福井県福井市の丸山古墳を卑弥呼の墓と比定していますが、これでは整合性が取れませんね。ところがこの古墳からは邪馬台国時代の祭祀用器台が、間違いなく出土しているのです。

 次回は、私がこの墳丘墓を「卑弥呼の墓」と断定するに至った経緯を示して行きます。