やってはいけない曲解①

 邪馬台国の比定地論争では、我田引水の曲解合戦が横行しています。自分の説に都合が良いように、魏志倭人伝の記述内容を捻じ曲げて、正当性を主張しているのです。タチの悪い事に、曲解している論者たちは、自分が曲解しているなどとは夢にも思っていないことです。アマチュアの古代史研究家ならばともかく、プロの歴史作家でさえも、ありえない超ド級の曲解を平気で行っています。

 今回は、魏志倭人伝の基本に立ち返って、絶対にやってはいけない曲解を示して行きます。

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曲解

 あらためて、魏志倭人伝の基本を整理してみましょう。

魏志倭人伝は、中国の正史・三国志の中の「魏書東夷伝倭人条」です。三世紀に中国に存在した魏・呉・蜀の三国の歴史を綴った書物の中で、魏という国の歴史の中に倭国についても、わずかに書かれているものです。

 この魏志倭人伝のタイトルでも分かる通り、内容は、倭国や倭国に住んでいた人々についてのものです。決して、邪馬台国や邪馬台国に住んでいた人々に焦点を絞ったものではありません。

 この書物の内容には、現実とは明らかに一致しない矛盾がありますので、それを解くための様々な曲解がなされてきました。その中には、「絶対にやってはいけない曲解」と「やってもやむを得ない曲解」があります。

 絶対にやってはいけない曲解は、魏志倭人伝の基本構成に関する曲解です。この書物が、当時の倭国や倭人について書かれているにも関わらず、すべて邪馬台国に関するものだと解釈してしまう行為です。魏志倭人伝の本質から完全に逸脱していますので、明らかな誤りです。

 曲解の中にも許容できるものもあります。それは、邪馬台国への行路における「方角の曲解」や「距離の曲解」です。これらは、ある程度やむを得ないでしょう。なぜならば、方角や距離を曲解しない事には、日本列島に上陸する事すら、おぼつかなくなるからです。古代中国の測量技術は、想像以上に低いレベルだったという事です。

 「やってはいけない曲解」の具体例を示す前に、まず、方角や距離という「やってもやむを得ない曲解」の例を示して行きます。

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45度のずれ

 この地図は、朝鮮半島と日本列島の一部です。

魏志倭人伝における邪馬台国への行路は、帯方郡という現代のソウル市周辺地域から始まります。この地域は近世まで中国の植民地でしたので、その当時も中国王朝・魏という国の植民地でした。

 魏志倭人伝によれば、帯方郡から狗邪韓国(現在の釜山市周辺地域)までが「七千餘里」。狗邪韓国から対海国までが「千餘里」。となっています。

帯方郡から狗邪韓国までは、約700キロですので、一里は100メートルとなります。

狗邪韓国から対海国までは、約50キロですので、一里は50メートルとなり、いきなり矛盾が生じてしまいます。

ここで一里を50メートルとすれば、対海国から一大國までの「千餘里」50キロ。一大國から末蘆国までの「千餘里」50キロ。これらは、大体辻褄が合いますので、佐賀県の伊万里の港あたりに上陸する事になります。

「里」という距離の単位は、古代中国では、「短里」75メートル、「長里」450メートル、という二種類がありましたが、残念ながらどちらにも一致しません。

 また、方角では、対海国から一大國へは南に向かうとされていますが、実際に対馬から壱岐島への航路は南東方向ですので、45度ずれている事になります。

 このように、古代中国の測量技術は稚拙だった、魏志倭人伝の距離や方角の記述は不正確だった、と曲解しない事には、九州に上陸する事すらできないのです。

 方角や距離については、「やってもやむを得ない曲解」として妥協するしかないでしょう。

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倭人伝は倭人について

 では、やってはいけない曲解に移ります。

これは、最初に述べましたように、魏志倭人伝の基本構成に関する曲解です。この書物は、倭国や倭人について書かれているのであって、邪馬台国だけに焦点を絞ったものではありません。

 具体的には、風俗習慣に関する記述や、特産品に関するものがあります。例えば、

・邪馬台国は絹の産地である

・邪馬台国は一年中温暖な場所である

・邪馬台国は真珠、翡翠、丹の産地である

などです。

魏志倭人伝には、倭人の風俗習慣や特産品の記述がたくさんありますが、邪馬台国がそうだとは書かれていません。倭国の中の様子であり、強いて地域を絞るならば女王國の中の様子である事が、文面から読み取れます。邪馬台国はあくまでも、女王の都であって、女王國の中の一つの国に過ぎません。文章を素直に読めば、邪馬台国に焦点を当てていない事はすぐに分かるでしょう。

 ではなぜそのような曲解をするのでしょうか? 単純な話です。自分が主張する説を正当化する為です。

絹については、北部九州でしか出土していないので、北部九州説は強力に主張します。また、気候が温暖だというのも、九州説に都合がよく。真珠・翡翠・丹が産出するというのは、私が主張する越前説に都合がよい記述です。

 しかしこれらは、女王國の一部分だったという根拠にはなっても、邪馬台国だったという根拠にはなっていないのは自明です。

 繰り返しますが、魏志倭人伝は倭人についての書物であって、邪馬台国に焦点を絞った書物ではありません。

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東京は沖縄?

 この「やってはいけない曲解」を現代の日本列島に当てはめてみましょう。

例えば、数千年後に、日本に関する全ての情報が失われ、唯一中国語で書かれた歴史書が見つかったとしましょう。タイトルは、「21世紀日本人伝」とでもしましょうか。

そこには、日本の風俗習慣や特産品が書かれていました。また、日本の都は「東京」だと書かれていました。

しかし、どう読み込んでも、東京の場所が特定できません。

そこで研究者たちは、日本の風俗習慣から東京の場所を特定しようとしました。

風俗習慣には、次のように書かれていました。

 「一年中温暖で屈指のリゾート地である。亜熱帯気候で生物に好適な気候に恵まれ、貴重な動植物が多い。」

これをもって研究者たちは、沖縄諸島こそが、日本の都・東京である、と断定しました。

 おかしいですよね。沖縄も日本の一部ですが、都ではありません。この歴史書に記されている内容は、沖縄へ行ったことのある中国人が、日本の風俗習慣としてその様子を記したに過ぎないでしょう。

 魏志倭人伝も同じです。倭国の一部分の風俗習慣だけを捕えて、それに一致する場所を女王の都・邪馬台国、としてはいけません。論理的ではないですねぇ。

 このような曲解は、やってはいけないのです。

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倭国全体の描写

 魏志倭人伝に書かれている倭国の様子からは、次のような模式図が成り立ちます。

倭国という古代の日本国があります。その中に、女王國という広域に渡る諸国連合国家があります。倭国の中でも、女王國に属する国々と、そうでない国々が記されています。属する国々は、伊都国、現在の福岡県糸島市からで、奴国、不彌國、投馬国、などが含まれます。もちろん、女王の都・邪馬台国も、この中の一つの国です。

 倭国の中で女王國に属さない国は、朝鮮半島南部の狗邪韓国や、対海国、一大國、末蘆国などがあります。そして女王國に敵対していた狗奴国は、女王國の南に位置していると書かれています。

 このような倭国・日本の勢力構図が、魏志倭人伝からは読み取れます。そして、これらの国々全体の倭人についての描写が、魏志倭人伝の本質です。邪馬台国は女王の都と書かれているにすぎませんので、そこに焦点を絞った内容では、決してありません。

 魏志倭人伝を素直に読んでみると、断言できる点が見えてきます。それは、北部九州は女王國の一部だという事です。絹の生産や、温暖な気候だという事だけではなく、吉野ケ里遺跡のような宮室、楼観・城柵がある拠点集落、そして鉄鏃が多く出土している事。これらは、魏志倭人伝の記述に完全に一致しています。間違いなく女王國の一つの地域です。しかし、女王の都・邪馬台国ではありません。九州説論者の切ない気持ちは分かりますが・・・。

 次回は「やってはいけない曲解」第二弾として、邪馬台国と女王國とを同一視する過ちについて述べて行きます。