卑弥呼の墓⑦ 特殊な祭祀土器

 卑弥呼の墓・丸山古墳から発見された土器は、たったの一点だけです。これを以って、この地が女王の墓であると比定するには、あまりにも弱い根拠と言わざるを得ません。しかしながら、この土器の形状は日本全国の弥生土器を調べてみても類似するものはなく、超個性的です。

 今回は、発見時の状況や弥生土器の傾向、さらには丸山古墳のすぐ近くから発見されている弥生遺跡の概要をまとめます。

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頂上で出土

 これは、卑弥呼の墓から発見された土器の写真です。発見された場所は頂上部で、現在は水道貯水池がある場所です。1954年にこの施設を建設した際に発見されました。残念ながら、詳細な情報はなく、破片が見つかったという事以外は、埋められていた地点や深さは分かりません。

 前回の動画で考察しました通り、頂上部の20メートル四方が掘削され、深さも10メートルくらいは掘り起こされたと考えられますので、このエリアからの出土品はこれ一点だけだったようです。昭和29年という埋蔵文化財に対する意識が低かった時代ですので、このほかにも遺物があった可能性はありますが、棺のような大きなものであれば見つかっていたはずですので、埋葬場所ではなかったと推測します。

 発見された土器の破片は、1966年(昭和41年)に復元されて、報告がなされています。但し、正式な発掘調査では無かったらしく、日本全国各地にある埋蔵文化財センターに収蔵されている「発掘調査報告書」という形で見る事はできません。

 現在は、「福井市史 資料編1 考古」という本に掲載されています。この本は、福井県の図書館に収蔵されていますが、関東地方では東京の国立国会図書館で閲覧できるようです。

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土器の文様

 今回は、発見されたこの土器に焦点を絞って、考察して行きます。

形状は祭祀用の器台で、とても個性的です。

鼓状に上下に開き、装飾性に富んでいます。内面・外面とも、入念に丹と呼ばれる赤色の硫化水銀が塗られています。

 内面と外面を書き写した図面を示します。

 胴部には円形と方形の透孔が上下2段にみられます。

 上部内面と下部外面には櫛状施工具による流水文および波状文の繊細な沈線が認められます。

また、口縁部の外側には、上部5条、下部4条の平行沈線が明瞭に認められます。

 これらの文様は、古墳時代の近畿地方の土器に描かれているものと類似点がありますので、後の時代に近畿へ影響を与えた弥生土器といえるでしょう。

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多様な器台

 器台という何らかのお供え物を載せる土器は、弥生時代中期以降に出現し、後期に至って発達しながら普及します。ところが弥生時代末期の邪馬台国の時代からは、どういうわけか急速に衰退する傾向にあります。この事から、発見された器台は邪馬台国時代から、それよりも前の時代であるという推測がなされます。

 同じような弥生時代の器台は、日本全国各地から出土しています。しかし、鼓形の器台はユニークな上に、繊細な文様が施されていることから、非常に貴重な遺物です。また、赤色の顔料であり薬品や防腐剤としても活用されていた丹と呼ばれる硫化水銀が全体に塗られていますので、卑弥呼の神事を司る行事に使われたと想像するに難くありません。

 丸山古墳からのたった一個の出土品とはいえ、他の地域には類を見ない特殊な祭祀用の器台だと言えます。

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周辺の遺跡

 卑弥呼の墓のすぐ近くの弥生遺跡には、高柳遺跡。新保遺跡。丸山釜山遺跡、などがあります。

 高柳遺跡は、縄文時代から平安時代までの広い時間幅の遺跡ですが、弥生時代にフォーカスすれば、典型的な弥生墳丘墓である四隅突出型墳丘墓が発見されています。

また、新保遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期ごろの集落遺跡です。多数の土器類のほかに、灌漑用の水路や、それを構成する矢板や杭などが発見されているのが特徴です。つまり、邪馬台国時代に水田稲作が確実にこの地で行われていた事の根拠になっています。

 一方、丸山釜山遺跡は丸山古墳のすぐ脇から発見された遺構です。邪馬台国時代の柱の穴が多数発見されているのが特徴です。その中には、直径80センチもの太い柱の穴もあります。当時の住居は竪穴式で、柱の太さもせいぜい20センチ程度ですので、この遺跡には、巨大な建造物が存在していた可能性があります。

 丸山古墳のすぐ脇という事もありますので、卑弥呼が居住していた宮殿、あるいは神事を司る神殿だったのかも知れませんね。

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邪馬台国の広域図

 この地域を俯瞰してみると、卑弥呼の墓は、鉄器出土日本一の林藤島遺跡や、原目山墳墓群を含む松岡古墳群、継体天皇の拠点などに囲まれています。このエリア一帯が、邪馬台国の中心地だったように思えます。もちろんここだけで、魏志倭人伝に記されている七万戸もの多くの人口を賄う農業生産はありません。縦横数十キロにも及ぶ天然の水田適地である平野全域が邪馬台国であり、生産物の集積地として繁栄していたのでしょう。

 卑弥呼の墓・丸山古墳は、そんな中心地の一角にあった小山を、盛土や切土で円形状に成型して作られたものなのです。卑弥呼が存命中は物見台として、あるいは神事を司る舞台として。そして亡くなった後はお墓として、活用されたのだと想像します。

 今回までで、卑弥呼の墓・丸山古墳の概要を終わります。現時点では、1954年の貯水池工事での器台発見の詳細が分かっておらず、かなりの部分を想像にまかせています。今後、発掘調査が実行に移った場合に、自治体の協力のもとに詳しい内容が分かって来ると思います。

  最後に核心の疑問。この丸山がどうして「古墳」と呼ばれているのか? 棺も無いのに...。

 卑弥呼の墓については、新たな発見が有り次第、随時、動画を作って行きます。