神武東征の船 必要は発明の母 瀬戸内海航路が拓かれた訳

 こんにちは、八俣遠呂智です。

藤原氏一族が近畿地方へ移住した物語を元ネタとする神武東征ですが、その航路には不可解な部分があります。

わざわざ無理をして瀬戸内海航路を使わずとも、古代のスーパーハイウェィとも言える日本海航路を使って、近畿地方へ行ってもよかったはずです。不思議ですね?

 今回は5世紀の政治状況や技術レベルの観点から、瀬戸内海航路を開拓した必然性を考察します。

 これまでの藤原氏シリーズの動画の中で、神武東征は藤原氏一族の東遷である、という推論を述べてきました。

時代としては5世紀頃で、日向の馬飼職人だった一族が、近畿地方の巨大古墳造成での馬の需要を見込んで移動して来た伝承。これが神武東征の元ネタです。

 そしてその航路では、馬飼一族は直接近畿地方へは向かわずに、最初に北部九州に向かっています。この理由を、馬を運ぶための大型船の造船技術や航海技術を解決する為、すなわち、玄界灘の海のプロフェッショナル・古代海人族を頼ったからだと推測しました。

 しかし次の行程で、なおも疑問が残りました。瀬戸内海航路を使って近畿地方へ向かっている事です。よく知られているように、瀬戸内海は潮流変化が激しい上に潮流速度が速いという世界屈指の困難な海域です。なにも無理をして瀬戸内海など使わなくても、古代のスーパーハイウェィとも言える日本海航路を使って近畿地方へ向かえばよかったはずです。

古代海人族にとっては、日本海航路は勝手知ったる自分の庭のようなものです。弥生時代に稲作が青森県まで迅速に伝播したのは有名ですが、その前の時代である縄文時代においても沿海州や朝鮮半島東岸という環日本海の文化圏を形成していたのは、古代海人族の活躍抜きには語れないでしょう。

 また、魏志倭人伝に記されている行路でも、水行20日で投馬国、水行10日で邪馬台国、という対馬海流を利用した沖乗り航法が可能だったのは、一重に古代海人族の活躍があればこそだったのです。

 ではなぜ日本海航路を使わなかったのでしょうか?

それは、当時の政治状況が大きく影響していたからです。

そして、困難な瀬戸内海を選択せざるを得なかった。しかし災い転じて福となす。これによって、大型船の造船技術が大きく進化したと考えられます。まさに「必要は発明の母」、と言えるでしょう。

 神武東征の元ネタである馬飼職人・藤原氏一族の移動が起こったのは5世紀頃ですが、それ以前の日本列島の政治状況を俯瞰して見ましょう。

 まず3世紀には日本海側に諸国連合国家である女王國が存在していました。その影響力は、女王の都・邪馬台国から北部九州までの広域に及んでいました。

その後、出雲神話の八俣遠呂智に見られるように、須佐之男命に敗れた邪馬台国は、出雲の地から撤退した事が分かります。しかし相変わらずその勢力は強く、但馬・丹後・若狭・越前エリアを支配下に収めていました。これは、須佐之男命の息子・大国主命の神話でも窺えます。出雲を旅立った大国主命は、伯耆・因幡を征服するものの、女王國の本丸を飛ばして、能登半島へ向かい越中・越後へと入って行きます。それだけ女王國の力は凄まじく、容易に手出しが出来なかった事を物語っています。

 このような当時の政治状況では、敵対していた北部九州から日本海航路を使って近畿地方へ入って行くのは、かなりの危険を伴いました。

 一方、日本海側と近畿地方との文化的な断絶もありました。

邪馬台国があった3世紀には、近畿地方は敵対する狗奴国でした。文化の流入は遮断されており、中国大陸からの先進文明が近畿地方に入る事はありませんでした。その典型的な例が、鉄です。邪馬台国時代の鉄は、数・量ともに越前や丹後の遺跡から発見されたものが日本一多いのに対して、近畿地方はごく僅かです。奈良盆地にいたっては、わずか一桁の鉄器しか見つかっていません。また、弥生時代の墳丘墓でもその傾向が見られます。丹後の方形周溝墓、越前の四隅突出型墳丘墓では、50メートルを超える大型のものが造成されていますが、近畿地方では大型の弥生墳丘墓がないどころか、墳丘墓自体も存在していないのです。

 このように考古学的な視点からも、邪馬台国と狗奴国が敵対していた事を、明確に裏付けています。

 4世紀の古墳時代に入ってもその傾向が見られます。近畿地方では、鉄器類の出土が増えると同時に、大型古墳の造成が始まりますし、青銅鏡の生産も始まりますので、中国文化の伝播があった事は間違いありません。その一方で、日本海側との文化の断絶は続いていたようです。五経博士のような優秀な人材、百済仏教、建築技術、などは、6世紀に入らないと近畿地方へは伝播していませんし、今回のテーマでもある馬飼の技術や、最新鋭の大型船の建造技術は、早く見積もっても5世紀がいいところです。特に馬飼技術については、4世紀頃に日向の国と北関東で進化した事実があります。近畿地方も決して馬の繁殖に適さない場所ではないにも関わらずです。3世紀頃に日本海側にやって来た馬飼集団は、峠を越えて関東地方へ行ってしまい、そこで花開きました。距離的に近い近畿地方への伝播は100年ほど遅く、完全に孤立していた様子が窺えます。

 それだけ、弥生時代から古墳時代前期に掛けては、日本海側と近畿地方との対立は激しく、簡単に入り込めるような状況ではなかったという事でしょう。こういった政治状況の中で、日向の国の藤原氏のご先祖様は近畿地方へ向かう事になったのです。

 北部九州と敵対していた女王國。女王國と敵対していた狗奴国、という構図の下では、日本海航路を使って近畿地方へ馬を持ち込むのは、危険すぎる選択肢でした。

 地域間の争いさえなければ、日本海航路を旧来型の大型船を使って航海できる上に、対馬海流を利用して時間的にも短く近畿地方に到着できます。しかしそれが出来なかった為に、あえて困難な瀬戸内海を選択した訳です。

 日向の国といういわば内陸部のような場所から北部九州へ出てきた馬飼職人たち。彼らにこのような知識や情報があったとは思えません。とりあえず玄界灘の古代海人族を頼って北上して、日本海航路で近畿地方へ入る算段だったのかも知れませんね?

 ところが、政治状況も熟知していた海人族たちに反対されました。結局は困難な瀬戸内海航路を選択せざるを得なかったのです。

神武東征の行路に見られるように、北部九州では1年間も逗留しています。おそらくそこで、当時の政治状況や瀬戸内海航路の検討、さらにはそこを航海する事のできる大型船の建造、などに時間を費やしていたのでしょう。

 北部九州での、最新鋭の大型船が建造は、まさに「必要は発明の母」でした。瀬戸内海を進まなければならないという究極の選択肢の為に、新たな技術開発が行われた訳です。

 新たな大型船は、この写真のような古代船だったと考えられます。これは、日向の国・西都原古墳群から見つかった舟形埴輪です。同じ時期の近畿地方の舟形埴輪に比べて、船底となる丸木舟の部分が小さくてシャープである事が分かります。また、構造部の舳先や波よけは極力部材の重量が重くならないように工夫されています。旧来型の古代船では重量が重すぎて操縦不能になってしまいますが、これですとかなり軽快に操縦できた事が、写真の上からも想像できます。

 この2つの大型古代船の実証実験は、それぞれ行われています。1990年の近畿地方の舟形埴輪を復元した「なみはや号プロジェクト」では、全く使い物にならず大失敗に終わりましたが、2004年の日向の国の舟形花輪を復元した「大王のひつぎプロジェクト」では、見事に成功を収めました。

「大王のひつぎプロジェクト」は、熊本県宇土市産のピンク石を近畿地方まで輸送した実証実験でした。継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳の棺に、この宇土市産のピンク石が使われていた事にちなんだものです。

時代的には、磐井の乱が終結した西暦530年頃となりますので、瀬戸内海を大型船が航行した最も古い事実です。

「大王のひつぎプロジェクト」は、これを現代の技術を使って再現実験した訳です。

 神武東征の元ネタが5世紀頃とすれば、大型船の造船技術が進化した時代とも一致しますね?

そしてその技術が進化した根本的な原因は、当時の政治状況です。弥生時代末期から続いていた勢力構図が色濃く残っていたのです。日本海航路で近畿地方に入るには、新羅や九州と対立していた女王國の領域に入って、さらに女王國と対立していた狗奴国・近畿地方へ入る、という二重の障壁がありました。

 このような状況では、最も便利な日本海航路を使う事は出来ず、やむなく、恐怖の海とも言える瀬戸内海航路を使わざるを得ませんでした。

 その事によって、困難を克服する為の新たな造船技術が生まれました。同時に、九州-近畿間に、新たな海の道が拓かれる事になりました。まさに、必要は発明の母だったのです。

 いかがでしたか?

大型船で初めて瀬戸内海を渡ったのが、藤原氏の東遷だというのは、もちろん仮説に過ぎません。しかし、馬の近畿地方への伝播、最新鋭の大型船、大王の棺の運搬の事実、そして当時の政治状況などの様々な要因を鑑みると、かなり真実に近いのではないか、と自負しています。必要は発明の母。瀬戸内海航路を使わざるを得なかった事情が、造船技術を進化させたのではないでしょうか?

 神武東征という神話であっても元ネタがあり、真の古代史が隠されているように思います。