魏志倭人伝は正しい⑫

 魏志倭人伝に記されている邪馬台国への行路で、奴国を博多湾とした場合には、九州島に上陸した後の方角に明らかな誤りがあります。それは末蘆国~伊都国、伊都国~奴国への方角が「東南」となっている事です。この方角が正しいとして行路を辿って行くと、九州中央部の山岳地帯へ入り込んでしまいますので、何らかの理由で誤りが生じたものと思われます。これまで、いろんな研究者達がいろんな説を主張してきましたが、未だに説得力のあるものはありません。今回は、諸説を示して行きます。

正しい1210
奴国は博多湾

 魏志倭人伝の行路の記述には方角・距離ともに矛盾がありますので、まずは、博多湾沿岸地域が「奴国」だったという基準を設けます。これは、漢委奴国王という金印の出土や、弥生遺跡の量や質がほかの地域を圧倒していますので、妥当な線でしょう。

正しい1220
帯方郡を出発

 この基準を元に、始点である朝鮮半島の帯方郡からの行路を示します。

南へ行ったり東へ行ったりしながら7000里で、狗邪韓國に到着。ここからは対馬海峡を渡って行きます。

正しい1212
対馬海峡

  1000里で対海国に至る。更に南へ1000里で一大国に至る。更に1000里で末蘆国に至る。陸路500里で伊都国に到着。更に100里で奴国に至ります。

正しい1213
朝鮮半島のずれ

 何ら問題はなさそうですが、方角には実際とは明らかなズレがあります。

まず、帯方郡から狗邪韓國への行路では、南へ進んだ後、東へ進むとなっていますが、実際には北東方向ですので、45度ずれています。

正しい1221
対馬海峡のずれ

 何ら問題はなさそうですが、方角には実際とは明らかなズレがあります。

まず、帯方郡から狗邪韓國への行路では、南へ進んだ後、東へ進むとなっていますが、実際には北東方向ですので、45度ずれています。

正しい1224
九州島のずれ

  また、対海国から一大国へは南となっていますが、実際には南東方向ですので、これもまた45度ずれています。

 この辺はまだ小さなずれですので、許容範囲だと思います。

 方角の大きなずれは、九州島に上陸した後から始まります。

末蘆国から伊都国へは、東南となっていますが、実際には北東方向ですので、時計回りに90度ずれています。さらに伊都国から奴国へも、東南となっていますが、同じように北東方向ですので90度ずれています。

 このように、九州島に上陸した後からは、魏志倭人伝の記述に明らかな方角の誤りが起こっています。

正しい1240
内藤湖南

 なぜこのような事が起こったのでしょうか?

これまで様々な説が唱えられてきましたが、説得力があるものは未だに存在しません。

 最も古い説では、邪馬台国畿内説の先駆者・内藤湖南が唱えた「魏志倭人伝の誤記」という説です。これは、奴国の先の不弥国からの話ですが、不弥国から投馬国へは南へ水行20日、投馬国から邪馬台国へは南へ水行10日、陸行1月、について述べたものです。

 彼の説によると、魏志倭人伝の著者・陳寿が「東」と書くべきところを「南」と書いてしまったから、との事です。

 それによって、不弥国の次の投馬国は瀬戸内海沿岸地域、その次の最終目的地・邪馬台国は奈良盆地の大和、としたわけです。

 どう思われるでしょうか? この方角だけ書き間違いなんて、ちょっと虫がよすぎますね。

これでは説得力がありません。

 

 それに、不弥国から先の九州島を離れる行路だけが書き間違いならば、九州島内での方角は正確だという事になってしまいます。方角の誤りは、九州島内で既に始まっていますので、それとの矛盾も生じてしまいます。

 末蘆国~伊都国、伊都国~奴国への二回の「東南」方向という誤りについては、なんの説明にもなっていないのです。単に、邪馬台国を近畿地方にしたかったという、ただそれだけの曲解だったのです。

正しい1250
古地図

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B: 「東」と「南」との書き間違いなんて馬鹿馬鹿しいけど、実際に魏志倭人伝の方角の記述に間違いがあるのは事実ですよね?

 

A: そうね。畿内説にしても九州説にしても、90度修正しないとどこへも行けませんね?

 

B: じゃあ、何が原因だと思いますか?

 

A: 一般的には、「古代には日本列島が90度回転していた」っていう説が支持されているようですね。その当時の日本列島については、九州が北で、本州がその南側に伸びているという認識だったという考え方です。

 

B: なんだかそれも虫のいい話ですねぇ?

 

A: そうね。でも根拠となる古地図があるんです。

混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)と呼ばれる1402年に李氏朝鮮で作られた地図ですが、この中の日本列島を見て下さい。九州が上で、本州が下になっているでしょう? このように古代の朝鮮や中国では、日本列島が90度ずれて認識されていたようなのです。

 

B: んーーー。なんだかなぁーーー?

 

A: もちろんこれに納得していない論者もいっぱいいますよ。それは、この地図と同じ時代に作られた他の地図では、このように日本列島の向きがちゃんとしたものもあるからです。ですので、古地図を根拠にするのもまた、説得力に乏しいですね。

一つ言えることは、魏志倭人伝の時代の中国の測量技術は、想像以上にレベルが低かったという事です。なぜなら、これらの古地図が作られたのは魏志倭人伝よりも1100年も後の事だからです。

 

B: なるほどー。古代中国も大したこと、ないですねぇ?

 

A: そうですね。魏志倭人伝の方角が不正確なのは、そもそも測量技術が稚拙だったからかも知れませんね。

正しい1251
対馬海峡の作用

 話を元に戻します。

このほかにも、いくつかの説がありますので紹介します。

 まず、対馬海流の影響です。実際に対海国から一大国への航路は、魏志倭人伝には「南」となっていますが、南東方向に進んでいますので45度ずれています。これは、船の舳先を「真南」に向けて進んいたはずが、実際は対馬海流に流されて「南東」に向かって進んでいたという訳です。ところが、魏の使節団は「南」に向かっていると思い込んでいた為に倭人伝の方角の記載に誤りが生じてしまったわけです。

 もっともらしい説ですが、無理があります。それは、航路は往復している事です。対海国~一大国だけでなく、復路の一大国~対海国へも移動していますので、方角の誤差には当然気が付くでしょう。さらに、九州最初の上陸地点・末蘆国から、次の伊都国までの方角の誤差が顕著になっている事との矛盾があります。海流の影響のない陸路ですので、方角の誤差は生じないはずです。

正しい1270
日ノ出の位置

 次に、日の出の位置からの、魏の使者たちの勘違いです。

使者たちがやって来たのが夏至の時期とすれば、太陽が昇る位置が真東から45度ほど北へずれています。これをもって方角の認識さえもずれてしまったとする説です。

これはないでしょう。邪馬台国時代よりも数千年前から、中国では太陽の軌跡を理解していますので、いくらなんでもそんな幼稚なミスは犯しません。

正しい1280
魏の戦略

 次に、魏の戦略上、日本列島は90度ずらす必要があった、とする説です。その当時、魏の国は、中国大陸南部の呉の国と戦闘状態にありました。そこで、魏は倭国と同盟を結び、倭国の形状を90度ずらして表現し、呉の国を牽制したのです。これにより、呉の東海岸に近い位置に倭国があるとして、包囲網を構築し、圧力を掛けた、とする説です。

 これも説得力がありませんね。呉の国の人々はそんなにおバカではないでしょう。仮にそうであれば、魏志倭人伝の内容が呉の国の上層部に伝達していなければなりませんし、伝達してあったとすれば三国志の「呉書」に何らかの記載があって然るべきです。呉書に倭国に関する記述が全く無い以上、こんな説を支持するわけにはいきません。

正しい1291
方角の認識

 さらに、当時の九州での方角の認識の問題を指摘する説があります。これは、現代にも残る地名に表れています。末蘆国に比定される佐賀県から長崎県に掛けての旧松浦郡での地名です。

 佐賀県にある北の方向に突き出た半島の名称は「東松浦半島」、長崎県にある西方向へ突き出た半島の名称は「北松浦半島」となっています。明らかに反時計回りに90度ずれています。

また、東松浦郡、北松浦郡、西松浦郡という地名も同じように90度ずれています。

 このように末蘆国の内部での地名に90度のずれがある事から、古来より九州での方角の認識にはずれがあったのではないか、という説です。また、松浦だけでなく、北部九州各地に方角が90度ずれている地名が残っているのは確かです。

 ただし、この説にも説得力がありませんね。そもそも地名が定められた時期の特定が困難です。果たして1800年前の邪馬台国時代からのものなのか? という疑問が残ります。

 典型的な例では、邪馬台国・甘木朝倉説があります。この根拠の一つに、近畿地方の大和との地名の類似性があります。この類似は、七世紀の白村江の戦の時期に、近畿地方からの人口大移動によって付けられた可能性の方が高いので、説得力がありません。地名を根拠とするのは、あまりにも浅はかでしょう。

正しい12100
説得力に乏しい

 これらのように、魏志倭人伝に記された方角が90度ずれている理由を、これまで、さまざまな視点から推測がなされています。ところがどれにも説得力がありません。

 理由はどうあれ、方角の記述が正確だと仮定して行路を辿ったところで、日本列島のどこにも行きつけないのが現実です。なんらかの明確な根拠を示す必要があるでしょう。

 次回は、私なりの見解を示します。

前回の動画「なぜ魏の使者は邪馬台国へ行けなかった?」と、ほぼ同じ根拠になります。

 たとえ古代中国の測量技術が進んでいたとしても、魏志倭人伝に示されている方角には誤りがあります。魏の使者たちにとっては、倭国へ来るのは単に女王国を見聞するだけでなく、政治的・軍事的に状況を探る目的も、当然あったことでしょう。ところがミスが生じてしまった。それは、例えば測量器具を持ち運ぶ事が出来なかった事情があったのではないでしょうか?

 次回は、そういう視点から私の自説を示します。