邪馬台国による近畿の文明開化

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの25回目。邪馬台国の大王・継体天皇が狗奴国を侵略した前線基地は、琵琶湖北西部の高島でした。

ここには侵略を開始したのと同じ時代の古墳から、絢爛豪華な金銅冠が見つかっています。さらにそのルーツを辿ると、邪馬台国・越前の5世紀の古墳から日本列島最古の金銅冠が発見されています。これは、朝鮮半島・百済の王族の墓から発見されている冠と同じ形をしています。これは何を意味するのでしょうか?

 琵琶湖北部地域は、古代において最先端文明地域でした。それは、峠一つ越えると若狭湾がある為に、日本海沿岸地域と同じように最新の大陸文明が入って来たからです。

 6世紀には、邪馬台国・越前の大王・継体天皇が、高嶋の地に拠点を置いて狗奴国・近畿地方の侵略へと乗り出しました。それは、弥生時代から続いていた邪馬台国と狗奴国との戦いの終わりを告げるものでもありました。

 そんな中で、邪馬台国の二本松山古墳から出土した日本列島最古の金の冠、銀の冠は興味深いものがあります。時代的としては4世紀から5世紀のものですので、女王・卑弥呼が存在していた時期と継体天皇が出現した時期との中間の時代に当たります。これは、越前の地に日本列島で最も古い王族が存在していた事の確実な証明になります。さらにそれだけでなく、日本列島に留まらず、朝鮮半島との強い結びつきも見えて来るのです。

 この冠の形は、朝鮮半島の百済や伽耶の王族の墓から出土したものとほとんど同じ形をしています。これは何を意味するのでしょうか?

 越前と朝鮮半島との結びつき自体は、何ら不思議な事ではありません。3世紀の邪馬台国の時代には、越前から北部九州までを、女王國という名の諸国連合国家が成立していました。しかもその都・邪馬台国は越前でした。また、日本書紀に記された卑弥呼のモデル・神功皇后は、この地から朝鮮半島の征伐に出かけています。いわゆる三韓征伐です。百済から奪い取った王冠を越前の地に持ち帰った可能性や、百済の王族が越前に流れ着いた可能性など、何の無理もなく推測が立てられます。

 日本で最も古い王冠が越前で見つかった事は、当然といえば当然の事です。そんな事よりも、むしろその後の時代に、後進地域だった近畿地方で起こった文明開化において、ほとんど文物が百済の国からもたらされたという事実に、密接に関係しているのではないでしょうか?

 その端的な事例が、6世紀の仏教伝来です。

近畿地方での仏教伝来は、第29代・欽明天皇の時代です。彼は、継体天皇の3番目の息子です。そして、仏教を大和王権の政治の中心に位置づけようとした人物をご存じですか? 北陸系豪族の蘇我氏一族です。具体的には、蘇我稲目です。

 日本書紀には、欽明天皇13年(552年)、百済の聖明王の使者が仏像と経論数巻を献じたとされています。つまり仏教は百済からのものなのです。もうお分かりですね?

 近畿地方では西暦552年かも知れませんが、それよりも150年前には、邪馬台国・越前は百済との深い繋がりがあり、金の冠・銀の冠に見られるように百済文化が届いていたという事です。学校教育で習う日本史では、仏教伝来は西暦552年ですが、それはあくまでも近畿地方での話です。先進地域だった日本海沿岸地域、特に邪馬台国・越前では、4世紀から5世紀には既に仏教伝来があったと推測できるのです。そして、継体天皇が近畿地方を征服してからようやく、奈良盆地にも新しい文明の風が入って行ったという事になります。

 二本松山古墳から出土した百済王族に起源を持つ金の冠・銀の冠は、百済仏教が越前勢力によってもたらされた事を如実に指し示しているのです。

 近畿地方の文明開化は仏教伝来だけではありません。

仏教伝来よりも38年前の「継体天皇10年(西暦516年)、百済は日本に五経博士漢高安茂(かんのこうあんも)を貢上した」、と日本書紀にあります。ここでも越前と百済との密接な結びつきが見えますね? 五経博士とは、古代中国の官職の一つで、儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官の事です。近畿地方は5世紀までは、巨大古墳の造成にうつつを抜かして閉鎖的でとても遅れた地域でした。「学問」という概念すら無かった事でしょう。そこへ継体天皇に征服された事によってようやく、「学問」というものが初めて入って来る事になったのです。

 なお、この五経博士による学問の伝来は、さらに次の世代に大きな影響を与えています。継体天皇の曾孫である聖徳太子と蘇我稲目の息子である蘇我馬子による、律令国家・中央集権国家体制の構築へと繋がって行ったのでした。

 このほかにも、法隆寺に見られる建築技術や、農地開拓の為の土木工事、大型船の建造技術など、様々な新しい文明が、百済から近畿地方へ湯水のように流れ込み、飛鳥時代という奈良盆地中心の国家体制へと繋がって行ったのでした。

 それらの流入ルートは、まず間違いなく、若狭湾から高嶋に入り、琵琶湖を渡って畿内へ入って来たものです。

学校教育ではその過程を無視して、百済から奈良盆地へ、あたかも棒高跳びでもしたかのように文明が入って来た事になっていますよね?

 

 ところで、継体天皇による近畿侵略の拠点となった琵琶湖の高島の地には、気になる名称が2つあります。それは安曇川という川と、志賀という地名です。安曇川は高嶋を流れる一級河川で、その支流が若狭湾との峠へと繋がっています。また、志賀という地名は、滋賀県の元になった名称で、古代には琵琶湖の事を意味していました。万葉集に記された飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂の歌には、「ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまた逢はめやも」とあります。ここで琵琶湖を志賀という名前で詠んでいるのは有名ですよね?

 さてここで、安曇川と志賀の関係です。安曇川は、あずみ川と読めますね? あずみと言えば? そう、古代海人族の安曇氏です。そしてその安曇氏が拠点としていた場所はどこだかご存じですか? それは漢委奴国王と刻まれた金印で有名な博多湾の志賀島です。繋がりましたね? 土地の名称から関連付けるのは早計かも知れませんが、同じような事例が、信州・安曇野にも見られる事から、古代海人族がそれらの地域に移り住んでいたと見ても間違いなさそうです。

 ここで邪馬台国への行路を振り返ってみましょう。北部九州の海の国・不彌國から水行20日で投馬国、水行10日で邪馬台国となっていました。これらは日本海沿岸を流れる対馬海流を利用した沖乗り航法なればこそ成り立つ行程です。これに活躍したのが、縄文時代からの海の民でした。玄界灘に面した地域を地盤としていた宗像氏、和爾氏、そして安曇氏です。

 邪馬台国の大王・継体天皇が近畿侵略の拠点とした高嶋の地に、安曇川や志賀という地名が存在するのは、単なる偶然では無さそうですね。おそらく、安曇氏が中心となって北部九州から日本海勢力を巻き込んで、琵琶湖の高島の地に勢力を結集したのではないでしょうか? そして安曇氏は海のプロフェッショナルです。外海で鍛えた航海術は、内海ではお茶の子さいさい。琵琶湖を挟んで対峙した近畿・狗奴国との船での戦いは、赤子の手をひねるように勝利した事でしょう。

 また、先述の百済からの文明の伝来にも大きく貢献したのは当たり前ですね。対馬海流を利用した日本海航路は、彼らにとっては自宅の池みたいなものですから。

 文献史学上で、もう一つ付け加えて置かなければならない点があります。それは、継体天皇自身と百済との結びつきです。奈良盆地に文明開化が起こる前の時代に、既に両者にはとても強い結びつきがありました。北部九州で勃発した磐井の乱です。この事件は、朝鮮半島の新羅と結託した九州・磐井勢力に対して、ヤマト王権・継体天皇の勢力は、百済と連合したとされています。あくまでも日本書紀の記述ではありますが、二本松山古墳の百済王族の王冠と合わせて、越前の地が百済との非常に強い結びつきがあった事を指し示す文献史料です。

 いかがでしたか?

学校で習う日本の歴史は、どうしても途中を無視していますよね? というよりも、歴史学会自体が近畿地方中心主義な為に、近畿地方以外の文明を無視するきらいがあります。中国大陸からあたかも棒高跳びのように先進文明が入って来て、そこを中心に日本列島に広がって行ったかのような扱いです。しかし、日本の古代史は、近畿地方が始発駅ではありません。客観的に考古学的史料を調べて行くと、始発駅どころか近畿は文明の終着駅のような存在です。先進文明が最後に伝わった場所が近畿地方という事になります。継体天皇の近畿征服が、それを教えてくれます。

  私が九州説を辞めた一番の理由は、農業生産力が脆弱で古代に大きな国は成立しない、という根本的な事なのですが、その他にも色々あります。その中の一つが、後の時代に邪馬台国はどうなったのか? という説明が付かない事があります。

 七萬餘戸という、弥生時代の超大国だったわけですから、古墳時代に入っても何らかの痕跡が残っていてもいいはずです。ところが九州には何もない。もちろん、「ヤマト東遷説」という九州にあった邪馬台国が近畿地方に移動して来た。なんていう荒唐無稽な説もあるのですが。これは何の根拠もないファンタジーです。

 ところが、邪馬台国が越前にあったとすれば、スコンと、その辺の説明が付くんですよね。恐ろしいくらいです。今回の、継体天皇が近畿地方を侵略して、そして、奈良盆地にヤマト王権が誕生した。中国大陸からの文物もどんどん入ってくるようになった。これはファンタジーなんかではなくて、歴史的事実ですから。

実在性の確実が最も古い天皇が、越前の出身だったというのは、本当に強いです。

 ただし、邪馬台国越前説はともかく、継体天皇で王朝交代が起こった、という説は、戦後、たくさんの研究者が主張しています。私だけではありません。どういうわけか、それらはことごとく潰されてしまいましたね? やっぱり、神武天皇以来の万世一系を頑なに信じる輩。それを背後で支援している大きな組織が、なんらかの圧力を掛けたのでしょうね?

 私も、このような主張をしていると、そのうちYouTubeから抹消されるかも知れません。