残念な農業 九州説の限界

 北部九州は古来より、中国や朝鮮半島から多くの文物が流入していました。それは地理的に当然な事であって、巨大な国家が存在していた事の証明にはなりません。

 弥生時代という主食が穀物へと進化した時代において、農業生産高の大きな地域に巨大国家が出現したのは、自明の理です。

 ところが、北部九州の土地は水田稲作を行うには、残念な地域だったのです。

 今回は、北部九州の残念な農業事情を、天然の水田稲作に適した土地だった邪馬台国と比較して、示して行きます。

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地質の基礎

 まず、中学校の社会科で習うレベルの地質の基礎から入ります。

この図は、地質の概略図です。扇状地、三角州、潟湖、三日月湖などが記されています。

この中で、天然の水田稲作に適した土地は、河川の蛇行による三日月湖跡地、干潟となった潟湖跡地、山間部や盆地の淡水湖の水が引いた谷底低地、河川の下流部に見られる三角州や湿地帯が干上がった一部の土地です。

 これらの土地は、粒子の細かい泥状の土なので、栄養が豊富な上に水はけが悪いので、天然の水田稲作地帯となりました。また、土地の傾斜も緩やかで平坦ですので、細々と畔を作る必要もありません。

 一方、扇状地は水はけが良すぎて水田には不向きですし、三角州や湿地帯は淡水や海水によって冠水してしまいますので、穀物栽培には適しません。

 また、河川の堆積によって既に形成されていた平地部分は、現代でこそ広大な農耕地になっていますが、弥生時代には密林地帯でした。それは、農耕が始まるよりもずっと前の時代に平地となった部分は、人の手が加わらなかった為に、湿地帯から草原地帯、そして密林地帯へと変貌してしまったのです。

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水田事情

 では、北部九州における天然の水田稲作に適した土地を見てみましょう。

現代では、開拓開墾、土壌改良が進んで、すべての平野で大規模な水田稲作が可能です。

 ところが弥生時代には、前回の動画で示しました通り、福岡平野は扇状地、筑紫平野は河川による沖積平野の密林地帯、直方平野は汽水湖でした。また、筑紫平野の下流域は有明海の底でした。

 その当時に水田稲作に適していた土地は、筑紫平野に点在する三日月湖跡と、直方平野の汽水湖周辺の干潟、および有明海沿岸の地域です。現代では想像もつかないほど、北部九州の農業事情は悪かったようです。

 なお、この中でもっとも広い水田が存在していたのは、有明海沿岸地域です。先ほどの中学校レベルの地質から見ると、「河川の下流部の湿地帯が干上がった土地」と言えます。

 この地域には、古代に於いて一定規模の勢力がありました。それは、農業の視点からだけでなく、考古学や文献史学からも明らかです。

 大規模集落跡が発見された吉野ヶ里遺跡、神功皇后が戦ったとされる熊襲の拠点である山門地域、継体天皇が反乱を制圧したとされる磐井勢力の拠点である久留米から八女に掛けての地域です。

 このように、古代の日本においては天然の水田稲作に適した土地に、大きな勢力が出現していた事が分かります。

 但し北部九州には、超大国が出現できるだけの、一極集中型の広大な水田稲作地帯は存在していませんでした。

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日本列島の地形

 北部九州の水田稲作事情は、日本列島において特に劣っていた訳ではありません。教科書通りの極めて普通の地形だったと言えます。日本列島全体を見ても、ほとんどが河川の堆積による沖積平野ですので、天然の水田稲作地帯は限られていました。現代では広大な水田が広がっている濃尾平野も、関東平野も、仙台平野も、弥生時代は密林地帯や湿地帯でした。

 むしろ、邪馬台国・越前や狗奴国・近畿が特殊な地形でしたので、奇跡的に広大な水田地帯になったと言えます。

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邪馬台国の地形

 では、邪馬台国が天然の水田稲作に適した土地だった事を示します。

中学校レベルの地質から見ると「干潟となった湖跡」と言えます。しかもその湖は、超巨大な淡水湖でした。

 六千年前頃の地球温暖化の時代には縄文海進と呼ばれる海面上昇が起こり、邪馬台国の平地部分は海の底になりました。その時代に、対馬海流によって日本海に面した部分に砂礫層が積み上がりました。縄文海進が終わった後も、水の出口が塞がれていたので、湖として残りました。数千年掛けて湖の底には山々からの堆積物が積み上げられ、平坦な沖積層が形成されました。

 この湖の水は、弥生時代前期頃から引き始め、邪馬台国の時代には、驚くほど平坦で、極端に水はけの悪い、巨大な沖積平野が出現しました。つまり、「干潟となった湖跡地」という事です。これは、河川による沖積平野とは異なり密林地帯にはなっていませんので、開墾の必要の無い、水田稲作を行うのには最高の土地です。

 このように、天然の広大な水田稲作地帯が出現した事によって、人口が爆発的に増加し、一極集中型の巨大国家が出現したのです。

 なお、邪馬台国時代から1400年後の江戸時代初期の旧国郡別石高帳によると、北部九州の広大な平野を有する筑前の国が52万石なのに対して、平野の面積が三分の一程度の越前の国は、68万石でした。

 重機の無かった古代において、開墾や治水工事は生易しいものではなく、天然の水田地帯の方が、江戸時代になってもまだ農業生産は高かったのです。

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石高比較

 よく似た事例として、出雲平野や新潟平野があります。これらの平野も縄文海進後に湖となりましたが、残念な事に湖の底の標高が低く、淡水と海水が混ざった汽水湖となってしまいました。そのために水引が遅く、弥生時代にはまだほとんどが湖のままで、水田稲作に適した土地は限られていました。

 これらは、以前の動画で考察していますので、ご参照下さい。

 近畿地方(狗奴国)もまた、巨大淡水湖が干上がって出来た天然の水田稲作地帯でした。古墳時代まで存在していた河内湖と奈良湖です。鉄器などの先進文明が伝来するのが極端に遅かった地域ですが、開墾の必要の無い干潟での水田稲作により、爆発的に人口が増えました。そして、古墳時代という近畿地方の黄金期を迎える事になります。

 北部九州は、先進文明の伝来こそ早かったものの、残念な事に、大規模な水田稲作農業を行える環境ではありませんでした。

 もちろん、邪馬台国が弥生時代の超大国だったという確証はありません。もし、林立した小国の中の一つであれば、邪馬台国が北部九州にあったとしても不思議ではありません。