大型船舶

 これまで、古代日本における高志の国の、中国大陸との直接交流を、古墳時代中期まで遡って検証してきました。

 海人族・安曇氏の活躍などもあり、確実に四世紀には高志の国が大陸文明の窓口でした。文明の流れの視点からも、高志の大王・継体天皇が近畿征服したのは、自然だったのでしょう。

 中国大陸-高志間は、一方通行ではなく、相互の交流でした。高志・姫川産の『翡翠』は、新羅の陵墓から多数発見されています。

 では、さらに時代を遡って、邪馬台国時代の三世紀以前はどうだったのでしょうか。

時代を遡れば、造船・航海技術も稚拙になります。果たして、日本海1000キロを一気に航海出来たのでしょうか。

 まずは、その点を考察します。

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年表 弥生時代から奈良時代

 この年表は、弥生時代後期から奈良時代までの中国大陸との交流を示しています。

 これまでに、奈良時代の遣渤海使を古墳時代中期まで遡り、中国東北部と高志の国のつながりを調査してきました。

 今回は、さらに遡り、二世紀~三世紀です。この時代は、高志の国・越前が、卑弥呼や壱与という女王を擁していた時期です。

 高志の国・越前・福井平野は、淡水湖跡が干上がった巨大な水田稲作地帯となり、日本一の農業大国となっていました。必然的に爆発的に人口が増え、超大国の基盤が整った時代です。

 神話の世界では、卑弥呼がモデルの神功皇后が、高志の国・敦賀を拠点として三韓征伐を行ったり、高志の国・能登が出雲の国を造ったり、また、ヤマタノオロチ伝説では、高志の国が出雲の国を搾取する様子が描かれています。いずれも、高志の国が強力な力を持っていた事を物語る神話です。そして、日本海をダイナミックに動き回っていた様子がイメージされます。

 この邪馬台国時代に、果たして本当に、そんな事が出来る造船技術や航海術を持っていたのでしょうか。

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沖乗り航法 地乗り航法

 これまで、奈良時代の遣渤海使から時代を遡り、四世紀頃には既に、日本海巡回航路が確立していた事を検証しました。

 さらに時代を遡り、二世紀~三世紀の邪馬台国時代についてはどうでしょうか?

当然ながら、時代を遡れば遡るほど、造船技術や航海術が稚拙になるので、遣渤海使と同じような航路を使えていたかどうかは疑問です。

 この時期の交易は、翡翠の輸出・鉄の輸入というシンプルな形で行われていましたので、必ずしも、日本海を大きく巡回するような航海は必要無かったかも知れません。

 海流と季節風を利用して沖合に乗り出し大胆に移動する「沖乗り航法」を行っていたかどうか、について考察する必要があります。

 「沖乗り航法」には、高度な船舶と航海術が必要です。それが出来なければ、「地乗り航法」となります。これは、原始的な航海方法で、陸地を目印にしながら陸岸から離れずに航行する方法です。天候が悪化すれば、すぐに入江に飛び込めますので、安全性の高い航法です。ただし、動力は人力の手漕ぎだけでしたので、船は毎晩陸に上がり、休息をとる必要がありました。必然的に航海に要する時間は、格段に多くなってしまいます。

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銅鐸に書かれた最古の船の絵

 「沖乗り航法」か「地乗り航法」か。

 これを検証する手段は、現在のところ、銅鐸に描かれた船の絵を参考にするしかありません。日本最古の船の絵が描かれた大石銅鐸です。

 この大石銅鐸は、以前の動画「井の向遺跡 最古の船の絵」で紹介した銅鐸です。二世紀頃の卑弥呼よりも前の時代のもので、邪馬台国・越前で発見されました。

 銅鐸出土が非常に少ない越前の国で、日本最古の船の絵が描かれていたのです。それだけ、邪馬台国・越前が交易活動にも活発な国家だった事の証とも言える銅鐸です。

 大石銅鐸には、「船の絵」のほかにも「戦闘の絵」も描かれています。

非常に抽象的な絵ですが、15人ほどの乗組員で、櫓を漕ぐ人々、舵を取る人、指揮する人がおり、帆を張る十字の支柱があるのが分かります。

少なくとも、筏(いかだ)や、丸太をくり抜いただけのカヌーの様な船ではない、大型船です。漕ぎ手を休ませて、海流や風向きを利用して航海するには遜色なさそうです。沖合に出て、大胆に海を渡り歩く事も可能だったように思えます。

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絵本の表紙になった最古の船の絵

この絵を基に、弥生時代の船を想像したのが、絵本の表紙になっています。

 邪馬台国の誕生 (教育社)

  著者 乙益 重隆

  表紙絵 田久保純子

もし、この絵の通りの船だったとすれば、当時の先進国・中国の船舶に引けを取らない優秀な船です。 弥生時代の航海技術を推測するには、資料が少なすぎますが、日本海巡回航路も不可能ではなかったのではないでしょうか。

 邪馬台国時代には既に、日本海をダイナミックに活動していたのかも知れません。

 「沖乗り航法」・「地乗り航法」、いずれにしても、邪馬台国時代には、高志の国と中国大陸との交易がありました。翡翠の輸出、鉄の輸入があったのは、出土品の状況から確実です。大石銅鐸に描かれた船であれば、たとえ「沖乗り航法」が出来なかったとしても、「地乗り航法」で大量の物資の輸送は可能だった事でしょう。

 なお、魏志倭人伝の航路、不弥国→投馬国(但馬国)水行20日、投馬国→邪馬台国(越前)水行10日は、沖乗りと地乗りの中間と思われます。対馬海流と季節風を利用して、山陰地方の海岸沿いに進み、気象条件が良ければ中間の港に立ち寄る事なく、一気に航海を進める手法だったと思います。

 今回紹介した弥生時代の越前の大型船舶であれば、それが可能だったでしょう。

 次回は、邪馬台国時代に高志の国から輸出された翡翠が、どこで発見されたか、などから当時の交易の様子を推察して行きます。