京都大学は畿内説

 江戸時代からの邪馬台国論争ですが、明治時代に入ると具体的な比定地論争へと変貌して行きます。現在でも延々と続く「畿内説 vs 九州説」の構図が、この時期に明確になりました。前回は、東京大学の九州説・白鳥庫吉までの経緯と内容について述べました。今回は、京都大学の内藤湖南の畿内説の概要について示して行きます。どういう訳か、畿内説から派生した様々な行路を提起したのもまた、京都大学勢でした。学閥が学問を凌駕した醜い構図です。

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内藤湖南

 畿内説の元祖的な存在としては、京都大学の内藤湖南です。

魏志倭人伝を考証する基礎を、地名、官名、人名等に求めました。もちろん邪馬台国は近畿地方にあるという結論ありきの考証でしたので、記されている国名の全てを近畿地方周辺の地に比定しました。

 彼の主張で最も有名なのは、方角の曲解です。

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方角の曲解

 魏志倭人伝に記述されている行路をたどると、北部九州の末蘆国に上陸した後、伊都国、奴国、不弥国へと進みます。そこから先、投馬国や邪馬台国へ向かう事になりますが、南に向かうとするところを、東へ向かうと曲解したのです。これは、魏志倭人伝の書き方の間違いで、南を東と誤認した為と解釈しました。こうしておけば、北部九州から東へ向かうわけですので、終着地点はちゃっかりと近畿地方になるというわけです。あまりにも我田引水ですね。

 具体的な航路としては、不弥国から水行20日とする投馬国は、周防佐婆郡玉祖郷(すおうさばぐんたまのおやごう)であって、現在の三田尻あたりとしました。これは、周防の一ノ宮と称されて古代より内海の要港だったからです。そしてこの投馬国から水行10日、陸行1月かかる邪馬台国は、近畿の奈良盆地としました。

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信用せず

 内藤湖南によれば、当時の里程の記載は正確ではないから、距離、日数の記載には初めから疑問があるとしています。そして魏志倭人伝には、「東」であるべき方向を「南」と誤記されたとしたのです。あまりに独断にすぎる解釈でしたので、当然ながら、九州説論者からは大いに非難されました。

 なお今日に至るまでに、方向のズレは内藤湖南の「魏志倭人伝の誤記」という説のほかに、

・古代の地図では日本列島は90°ずれていた

・魏の戦略上、日本列島は90°ずらす必要があった

・季節によって朝日の登る位置が変わる為

・九州の地名に90°の誤差があり、古代から方角に認識のズレがあった

などなど、様々な曲解がなされていますが、いまだに説得力ある説明はなされていません。

 なお、畿内説だけでなく、九州説も方向を曲解しているのですが、どういうわけか九州説支持者はひたすら畿内説を非難するだけで、自らの曲解には蓋をしているのが現状です。

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方角の曲解

B: ちょっと待って!

 

A: なっ、なに?

 

B: 九州説を支持している人達は、方向を曲解していないと言い張っていますよね?

 

A: そうですね。でも本当は、ちゃっかり曲解しているんですよ。

 

B:  へー? どんな曲解ですか?

 

A:  例えば、末蘆国を佐賀県唐津市、伊都国を福岡県糸島市、奴国を博多湾の早良平野あたりとしましょう。この場合、末蘆国から伊都国までは北東方向、伊都国から奴国までは東北東方向となります。

 

B: 確かにそうですね。

 

A: ところが魏志倭人伝には、どちらの方角も「東南」となっているんです。

 

B: あれあれ? 90°ずれてますねぇ。

 

A: そうなんです。九州説を支持する人達は、この事実には全く触れようとしないんです。

 

B: おや、まあぁ。

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瀬戸内海航路

  話を元に戻します。

 内藤湖南の近畿地方へ至る行路にも、矛盾があります。それは、北部九州・不弥国から、投馬国や邪馬台国へ至る行程に瀬戸内海航路を使っている点です。その当時は議論に上がりませんでしたが、これは無理でしょう。瀬戸内海は、潮流速度の速く世界最も困難な海域ですので、弥生時代の航海技術で渡り切れるものではありません。仮に瀬戸内海を渡って行ったとすれば、水行20日、水行10日という記述に合いません。それは途中の停泊地の記載があるべきだからです。潮流が最も好ましい頃合いを見計らって航海する必要がありますので、いくつもの港に停泊しなければなりません。その場合、水行20日、水行10日というザックリした記述ではなくて、瀬戸内海沿岸地域の国々の様子が記載されていて然るべきです。魏志倭人伝には、それがないのです。

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山田孝雄 日本海航路

 この事実を知ってか知らずか、近畿地方への行路を瀬戸内海ではなくて、日本海とした論者がいます。山田孝雄(やまだよしお)という歴史学者です。

 彼は、不弥国から水行20日で到着する投馬国を出雲国として、さらに水行10日で但馬の国、そこから陸行1月で奈良盆地の邪馬台国としたのです。

 これであれば、日本海を流れる対馬海流を利用した沖乗り航法が可能ですので、いちいち港に立ち寄る必要はありません。山田孝雄(やまだよしお)がそれを理解していたかどうかは分かりませんが、水行20日、水行10日という魏志倭人伝の記述に近い行路が描けるようになりました。

また、但馬から瀬戸内の播磨へ抜ける道は中国山地で最もなだらかな峠ですので、陸地を歩くにしても、比較的容易だったと推測できます。

 但し、古代神話の多い出雲を投馬国に比定したのは良いとしても、但馬や丹後という弥生遺跡の豊富さでは北部九州を圧倒する地域が、魏志倭人伝で無視されているのは、道理に合いません。

 いずれにしても、山田孝雄(やまだよしお)の説は、日本海航路を主張したという点において、内藤湖南の瀬戸内海航路説から一歩進化させた説と言えるでしょう。

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つばぜり合い

 これらように明治時代において、京都大学の内藤湖南を中心とする畿内説と、東京大学の白鳥庫吉を中心とする九州説が、明確に分かれて議論がどんどん沸騰して行きました。面白いのは、どちらの説も「魏志倭人伝を素直に読む」と言っている事です。当たり前ですね。邪馬台国が近畿にあった事を前提に、魏志倭人伝を素直に読めば、邪馬台国は近畿にあった事になりますし、邪馬台国が九州にあった事を前提に、魏志倭人伝を素直に読めば、邪馬台国は九州にあった事になります。ただ単に、結論ありきの我田引水、唯我独尊の論戦だったという事です。

 現在は、学会レベルでの議論は停滞していますが、アマチュア古代史研究家の間では、インターネットを通して議論が続いています。その内容は、明治時代と全く同じ状況です。

「魏志倭人伝を素直に読む」と言いながら、自分の説に都合が良いように素直に読んでいるだけ、というお粗末な状況が続いています。

 明治時代に形作られた畿内説と九州説との論戦は、現在も受け継がれています。しかしあくまでも、皇国史観に基づいた、天皇家に失礼が無いようにとの配慮があっての論戦でした。昭和に入り、第二次世界大戦が終結すると、皇国史観の呪縛から解き放たれて、自由な邪馬台国論戦がスタートします。万世一系を否定する説も多々見られるようになりました。もちろん、私が主張する越前説もその一つです。次回は、昭和以降、現在に至るまでの邪馬台国論争に焦点を当てます。