赤壁の戦い

 魏志倭人伝は、、邪馬台国からの使者によって交流が始まったかのように記述しています。この辺の事情は、あっさり流されていますが、国際関係の構築は単純なものではなく、その過程は非常に重要です。

 インターネットも電話も郵便も無かった時代に、どのようにして構築したのでしょうか?

 古代に限らず、現代でも政府・国会議員への陳情は、予め人間同士の繋がりが無ければ、出来ません。もちろん、外交関係においても同じことが言えます。

魏人
邪馬台国に、魏の中央と太いパイプを持つ人物がいた。

 魏と邪馬台国との接点はどうやって生まれたのでしょうか?

外交関係の無かった両者が、いきなり高官レベルで面会したとは思えません。普通に考えれば、邪馬台国の中に、魏と太いパイプを持つ人物が存在していたと考えるべきでしょう。その人物が先遣隊として、都の洛陽、または支所の帯方郡(朝鮮)に、邪馬台国の使者との面会を申し込んだはずです。どこの馬の骨とも分からない人間が、いきなり国家の主要機関に面会を申し込んだところで、門前払いされるのが落ちです。

 では、その魏と太いパイプを持つ人物とは、誰なのでしょうか?

魏人2
魏人は、有能な人物だった。

 まず、その人物は、

 

1.魏の高級官僚が名前を知っているレベルの人物である事

2.客家語とされる古代中国語が堪能である事

3.中国情勢を熟知している人物である事

 

 そんな優秀な人物が、東方の僻地である倭国・日本に、自ら進んでやって来るはずはありません。何らかの事情があったのでしょう。

 その事情とは・・・。

赤壁1
赤壁の戦い(西暦208年)。映画「レッドクリフ」でも有名。

 西暦208年、長江の赤壁において起こった「魏軍 vs 呉・蜀連合軍」の戦いです。2008年に「レッドクリフ」というタイトルで映画化された有名な戦いです。

 戦いの地は、長江流域で、現在の湖北省咸寧市付近です。

 魏の軍団は、黄河中流域にある都、洛陽から出発しました。峠を越えて、長江の支流の上流域で軍艦を造船し、長江へ向かいます。そして、長江の咸寧市付近に集結し、呉と蜀の連合軍と対峙しました。圧倒的多数の魏軍でしたが、呉・蜀の多彩な攻撃に手こずります。

魏の船団
敗走した魏の船団の一部は、黄海に逃れた。季節風と対馬海流で、日本に漂着した。

 結局この戦いで、数十万人の魏軍は大敗を喫しました。散り散りになった魏軍船団の一部は、長江下流に向かい、帯方郡を目指しました。ところが、北西の季節風や、流れの速い対馬海流に流され、倭国・日本に漂着してしまったのです。漂着先は、北部九州から、山陰地方や北陸地方と見られます。

 この漂着した艦隊指揮官の中に、魏の中央と太いパイプを持つ人物がいました。

卑弥呼の思惑
卑弥呼と魏人との思惑の一致。

 その当時の倭国は、「倭国大乱」の時代で、混沌としていました。超大国だった邪馬台国としては、これを収める為に「中国からの権威付け」が欲しかった時期です。また、漂流船団の人々も、祖国に帰りたかったのです。

 魏からの漂流船団と、邪馬台国との思惑が一致したという事です。

 西暦238年に、卑弥呼は魏へ最初の朝貢を行ったとされています。年代的にも一致します。

艦隊指揮官をはじめとする漂流船団のたちは、約30年間邪馬台国に滞在し、倭国の文化・風俗・諸国の名前など、あらゆる知識を習得しました。この知識が、魏書(王沈)に記され、後に三国志の魏志に掲載されることになるのです。

  卑弥呼にとっては、魏から下貢された銅鏡100枚を同盟国に配布することで、関係諸国との強化につながりました。

 

 この説が正しければ、畿内説、吉備説は無くなります。北部九州説、出雲説、高志(北陸)説が残ります。漂着先として、瀬戸内は無いでしょう。また、黒潮と北西の季節風から、太平洋側も無いでしょう。