九州説は百花繚乱

 邪馬台国九州説は、昭和初期に榎一雄が提唱した放射説によって、なんとか九州島の中に邪馬台国を収める事ができるようになりました。これを足掛かりに、宇佐説、筑後・肥後説、博多説、島原説、甘木朝倉説、日向説などなど、さまざまな説が飛び出して来ます。方角のズレを認識した冨来隆、方角に忠実に比定地を定めた井上光貞などです。しかし、残念ながら矛盾も多く、万人を説得できる説ではありませんでした。

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昭和に入ると

 邪馬台国・九州説は、江戸時代の新井白石や本居宣長による魏志倭人伝の恣意的解釈で、はじまりました。

その後、近藤芳樹、星野恒(ほしのひさし)などによって発展し、白鳥庫吉によって確立されました。さらに昭和に入ると榎一雄による邪馬台国までの行路の放射説が発表されました。これは画期的な辻褄合わせで、距離的に九州では不可能という常識を僅かばかり覆す事ができました。

 第二次世界大戦の後には、冨来隆(ふきたかし)の宇佐説や、井上光貞の肥後説が発表されます。また、博多説、島原説、日向説など、九州島全域に渡る百花繚乱状態となって行きます。

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方角のズレ認める

 戦後の九州説の中では、冨来隆(ふきたかし)の宇佐説が有名です。彼は、九州説論者の中では珍しく、方角のズレを認めています。対馬から壱岐島へは45度、末蘆国から伊都国、伊都国から奴国へは70度ほど東へズレているとしました。魏志倭人伝を素直に読んでいますね。

なお、方角のズレを認めた九州説論者は彼が最初ではなく、明治時代の三宅米吉という歴史学者もいました。

 冨来隆(ふきたかし)の邪馬台国の比定地は近畿地方ではなく、大分県の宇佐・中津地方でした。根拠は、この地方に古くから「山戸」の地名があった事です。宇佐神宮という奈良時代に権威を振るった強力な神社がありますので、その点でも注目に値します。

 しかしながら、近畿地方の大和といい、筑紫平野の山門といい、地名を根拠にしてしまうのはあまりにも浅はかです。

 なお彼は、不弥国から水行20日の投馬国を関門海峡の門司としており、地名との整合性が取れないだけでなく距離的にも全く整合性が取れていません。

 また、投馬国から南方向へ水行10日、陸行1月の邪馬台国までは、方角のズレが考慮されていないばかりか、宇佐ではあまりにも近すぎるという矛盾が生じています。

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方角のズレ 認めない

 冨来隆(ふきたかし)の次に注目すべきは、肥後説を唱えた井上光貞です。彼の場合は、魏志倭人伝の方角が正しいとして、正確になぞって行きました。末蘆国から伊都国へは東南500里、伊都国から奴国へは東南100里とありますので、奴国は博多湾ではなく、筑紫平野エリアとなります。魏志倭人伝に素直ですね。ところが奴国から不弥国への東方向の100里。不弥国から投馬国への南方向・水行20日。そして投馬国から邪馬台国への南方向・水行10日陸行1月になると、途端に怪しくなってしまいます。

 結局、邪馬台国の場所は熊本県の菊池盆地あたりが中心としました。北にある筑紫平野の山門や、南の熊本平野、人吉盆地などを含めた広域のエリアこそが女王国だとしたのです。農業の視点から言えば、菊池盆地は天然の水田適地ですので、強力な勢力が存在していた事は間違いないでしょう。この点では、以前の九州説論者からは、一歩進化した説だと言えます。

 しかしながら、行路にはあやふやな点が多いのが欠陥でした。魏志倭人伝の方向を正確に読むと言いながら、不弥国あたりからおかしくなり、投馬国や邪馬台国となると酷い曲解になってしまいました。

 また、九州説の先駆者である白鳥庫吉が主張した「帯方郡から邪馬台国まで12000里」という嘘を、昭和になっても主張し続けたのは致命傷になりました。

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帯方郡から邪馬台国まで12000里ではない

B: ちょっと待って。

 

A: なっ、なに?

 

B:  邪馬台国と女王国が同じだと考えている人は、今もいっぱいいますよ。

 

A:  そうですね。12000里という距離が邪馬台国までとするのが、九州説の唯一の根拠です。

けど、明らかな誤りですね。

 

B:  どうして誤りを認めようとしないんでしょうか?

 

A:  もし誤りを認めてしまうと死活問題ですので、恋々と執着しているのです。邪馬台国論争は新興宗教と同じで、ある説に一旦洗脳されてしまうと、そう簡単には抜け出せないのです。誰しも自分が信じた事を、そう易々とは手放したくないですからねぇ。

 

B:  たかが邪馬台国論争なのに・・・。大人気ないですねぇ。

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おらが村の邪馬台国

 話を元に戻します。

  邪馬台国・九州説は、このような歴史を辿りながら、様々な比定地が出現する事になります。1960年代から1980年代に掛けては、邪馬台国ブームともいえる時代で、九州島全域に比定地が乱立する事になります。これは、放射説をはじめとする魏志倭人伝の行路の曲解が盛んに行われた事と、アマチュア古代史研究家による「おらが村の邪馬台国」という根拠の希薄な解釈による綱引き合戦が行われた事によります。

 典型的な例が、島原説を唱えた脚本家で実業家の宮崎康平でした。島原という明らかに超大国が出現し得ない場所を、自分の出身地というだけで邪馬台国に比定しました。無理のある説でしたが、彼の功績は、アマチュア研究家でもプロの研究家と同じように、邪馬台国論争に加わる事ができるのを証明したことでした。

 そして、甘木朝倉説や、日向説など、有り得ない説が乱立し行きました。

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帯方郡が始点の放射説

 現在の九州説では、邪馬台国への行路曲解は、伊都国を基準とした放射説ではなく、帯方郡を基準とした放射説が人気のようです。これは伊都国を基準としても、投馬国までの水行20日や、邪馬台国までの水行10日陸行1月を計算すると、やはり九州島を飛び出してしまうので、遠く離れた朝鮮半島の帯方郡からとした訳です。こうすれば、北部九州にちゃっかり収まりますので、非常に都合が良いのです。なおこの解釈には、何の根拠もありません。

 また、邪馬台国は七万余戸という女王国の中では最も大きな国だという記述がありますが、それを認めない九州説論者もいます。九州島の中には弥生時代に超大国が出現できるだけの農業規模があった地域はありませんので、邪馬台国を小国連合だという根拠の無い解釈をしているのです。そうすれば九州説が成り立つわけです。困ったものですね。これだと、日本列島全域に邪馬台国の可能性が出てきてしまいますね。

 それはそれで、とても面白いのですが。

 九州島の各地を邪馬台国と比定する諸説は、それぞれ非常に難解な行路の解釈が必要です。簡単に理解できるものではありません。もっと、魏志倭人伝を素直に読むといいと思うのですが・・・。逆に言えば、素直に読んでも九州島に収まらなかったからこそ、様々な曲解が生まれて、色々な場所が邪馬台国の比定地となった、とも言えます。無限に発生する文献解釈の限界が、九州説から見えてきます。もちろん畿内説にもいろんな説がありますので、次回に紹介します。