翡翠と玉造

 邪馬台国・高志の国の重要な交易品は、翡翠でした。その鉱脈は、越後・姫川流域にあり、日本の99%を占めています。そして、縄文時代から世界最古の翡翠加工が行われていました。

 日本全国各地で、縄文時代から古墳時代までの翡翠の加工品が出土しています。ところが、昭和初期まで、その出土品はミャンマー産だと信じられていました。それは高志の翡翠を、人々の記憶から完全に消し去っていたからです。

 今回は、時代ごとの翡翠加工品の分布地域や、玉造工房の分布地域などを調査しました。

玉造10
全国に出土する糸魚川翡翠

 高志の国・姫川産翡翠の加工品は、日本全国各地で発見されています。

時代としては、縄文時代から古墳時代までです。時代を限定した訳ではなく、実際に飛鳥時代以降は忽然と姿を消し、一切発見されなくなったからです。

 まずは、縄文時代に絞ります。

 この中で、最も古いのは、新潟県糸魚川市の大角地遺跡(おがくちいせき)で、7000年前の翡翠の敲石(こうせき)が発見されています。また、新潟県柏崎市の大宮遺跡や、富山県富山市の小竹(おだけ)貝塚でも、縄文時代の翡翠の加工品が発見されています。

 縄文時代には、姫川上流から切り出した翡翠原石ではなく、ヒスイ海岸に流されてきた原石を加工したものと考えられています。

 また、高志の国に限らず、山梨県の天神遺跡や、青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)、北海道千歳市の美々(びび)貝塚でも、翡翠加工品が出土しています。縄文時代は、高志の国を中心として、東日本一帯が翡翠文化圏だったようです。

 加工場としては、5500年前の糸魚川市の長者ヶ原遺跡や、寺地(てらじ)遺跡が発見されています。

 では、邪馬台国に関係してくる弥生時代はどうだったのでしょうか?

玉造20
弥生時代の玉造遺跡

 弥生時代も、当然ながら高志の国一帯に翡翠の出土があります。加工場である玉造工房も、高志の国で多く発見されていますが、糸魚川市から少し離れた海上交通の要衝に多く見られるようになります。

 新潟県佐渡の 新穂(にいぼ)遺跡

 石川県七尾の 奥原峠(おくはらとうげ)遺跡

 福井県三国の 下屋敷(しもやしき)遺跡

などです。

 また、最も重要な福井県福井市の「林・藤島遺跡」は、邪馬台国の中心部です。稲作中心の弥生時代になって、巨大国家が成立し、そのお膝元に玉造り工房が出現しています。

 時代はまさに邪馬台国時代の二世紀から三世紀で、鉄製加工具2000点や鍛冶場跡も発見されています。卑弥呼の墓・丸山古墳からは、わずか1キロの地点です。

玉造30
古墳時代の玉造

 さらに時代を下って古墳時代に入ると、日本全国に玉造り工房が出現します。特に多いのは出雲地方です。勾玉や管玉などを作り出して、「玉」の一大生産地となりました。

玉造31
出雲の玉造と高志との関係

 この地図は、出雲平野を中心とする地域です。

  松江市近郊には、「玉造遺跡」があり、美肌で有名な「玉造温泉」のすぐ近くです。実はここの玉作りの技術や製法は「高志の技術と同一」といわれています。

  高志の国の植民地だった出雲へ玉造りの技術が伝わり、広がりを見せたのでしょう。

 また、出雲の美保関にある「美保神社」も高志の国と深い繋がりがあります。ここは、恵比須様の総本社として知られている有名な神社です。神社伝説ではありますが、大国主命と高志の国の奴奈川姫(ぬなかわひめ)との間に生まれた美保須々美命(ミホススミノミコト)が祭られています。

 この地域は、国引き伝説の地でもあります。高志の国・能登の余った土地をくっ着けた場所です。古事記と出雲風土記の、高志との関係が、同時に関連しているという事です。全く別系統の神話が、この美保関で一致しているという不思議な場所です。

玉造40
近畿の玉造

 一方近畿地方では、古墳時代の玉造工房の曽我遺跡が有名です。ここもまた高志の国の玉造り工法が用いられていたとされています。

 翡翠、瑪瑙、碧玉(へきぎょく)、水晶、ガラスなどの玉類が大量に加工されており、4世紀後半から6世紀中葉にかけて、日本最大規模の玉造りを行っていました。古墳時代の近畿地方の玉類の出土量の多さからも、その規模の大きさが窺い知れます。

 ところが出雲以外の全ての玉造工房は、六世紀前半に突如廃止され、それ以降は、出雲のみが独占的に生産を続けてゆくことになりました。

 それと同時に、糸魚川の翡翠の採掘も無くなりました。そして、人々の記憶からも無くなりました。

 高志の国・糸魚川が翡翠の原産地だと分かったのは、昭和の初めになってからです。

玉造41
忘れ去られた翡翠

 翡翠の原産地が忘れ去られたのは、翡翠の需要が少なくなったからという説があります。しかし、縄文時代から高志の国で生産・加工されていた宝石です。その鉱脈自体を忘れ去ってしまうのは、あまりにも不可解で、意図的としか考えられません。

 奈良時代から昭和初期までの1200年もの間、日本に翡翠の鉱脈がある事を、誰も知らなくなっていたのは、ミステリーです。古事記に記された大国主命神話で、高志の国の奴奈川姫との物語がありますが、『翡翠』という文字は一切ありません。太安万侶も、翡翠の原産地である事を知らずに、糸魚川の伝説を神話化したのかも知れません。

 次回は、邪馬台国が歴史の闇に葬られた事実と関連して、高志の翡翠が昭和初期まで闇に葬られた謎について考察します。