日本最古の超大国⑩

 こんにちは。八俣遠呂智です。

 記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は広大な天然の水田適地があった場所です。大規模稲作によって日本列島で初めて人口爆発が起こり、七萬餘戸もの超大国が出現したのです。

 今回は、前回に引き続き江戸時代の石高を基に、九州地方と近畿地方の農業状況を分析して行きます。

 江戸時代に徳川家康によって記された慶長郷帳は、石高という形で日本で最初に正確な農業生産高を表した記録とされています。この江戸時代初期の記録と明治時代初期の記録から、グラフを用いて石高推移を描き、邪馬台国時代の農業生産を推測しました。

 再度、同じグラフを示します。横軸が西暦、縦軸が石高です。近畿地方の河内の国、大和の国を実線、九州地方の筑後の国、筑前の国を破線で示しました。

 ここから明らかなように、時代を遡って行くと九州地方ではほとんど農業生産が無くなりますが、近畿地方では僅かながらも石高がありました。邪馬台国があった弥生時代末期には、近畿地方の農業生産が優位です。これは、天然の水田適地地があった近畿地方と、無かった九州地方との違いでしょう。

 また、古墳時代には河内の国、飛鳥時代には大和の国が、日本の中心地でしたが、その事実と農業生産との一致が見られます。

 一方で、九州地方は、古代には非常に小さな国しか存在していなかった事も分かります。

 なおこのグラフは、開拓開墾のスピードが直線的だと仮定していますので、異論もあるでしょう。実際の水田の広がりは、室町時代以降に加速度的に増加していますので、このような仮定に無理があるのは自明です。しかし、人工的ではない元々あった天然の水田適地の傾向を推測するには、十分な資料だと考えています。

 今回は、近畿地方・九州地方のそれぞれの国について、なぜこのような石高推移の傾向が見られるのか? という分析を行ってゆきます。

 では具体的に、近畿地方と九州地方の、地学的な傾向を見て行きましょう。

 まず、近畿地方です。河内の国と大和の国を取り上げました。河内と大和は、土地の成り立ちがよく似ています。それぞれ、河内湖と奈良湖という巨大な淡水湖が元々あった場所で、その湖水が引いて行ったことによる天然の水田適地が広がった場所です。べったりと平坦で、極端に水はけが悪く、しかも山々からの栄養豊富な堆積物が積もりあがって出来た土地です。

 河内の国については、百舌鳥古墳群に代表されるように、巨大古墳が造成された古墳時代に隆盛を極めた土地です。弥生時代末期という邪馬台国があった時代よりも少し後に、広大な水田適地が広がって人口爆発が起こったと推測されます。

 一方、大和の国はそれよりもさらに遅れて飛鳥時代ころに人口爆発が起こったと見られます。権力の中枢部が奈良盆地南西部の法隆寺で有名な斑鳩の地に移り、明日香村エリアの藤原京へと移って行った事からの推測です。この時代は、まだまだ都市国家のような商業都市ではなく、農業生産の高い場所に権力の中枢部が置かれていたのです。

 ちなみに、日本で初めて都市国家が出現したのは、奈良盆地北部の平城京です。同じ奈良盆地でも北部地域は淡水湖跡の沖積平野ではなく、扇状地という稲作には不向きな土地です。飛鳥時代までは、草木が生い茂るだけの役に立たない土地でしたので、その後の都市国家建設の候補地になった訳です。さらにその次の時代の平安京も同じです。京都盆地もまた扇状地ですので水田稲作には適していません。やはり草木が生い茂るだけの役に立たない土地でしたので、その後の巨大な都市国家建設の候補地になった訳です。

 近畿地方でもう一つ付け加えておきます。淀川下流域に位置しする摂津の国です。土地の成り立ちは、河川による沖積平野ですので、古代に於いて水田適地はそれほど大きくはありませんでした。しかし時代が進むに連れて下流域の沖積平野が広がって行った為に、江戸時代あたりからは急激に石高が上昇しています。

 なお、摂津は河内と接している事や、巨椋池という巨大淡水湖が存在していた事もあって、古墳時代中期ころからは巨大古墳が多く造成されています。

 六世紀に近畿地方を征服した継体天皇が拠点としたのは、まさに摂津の国です。この地の治水工事を行って水田面積を大いに広げて行ったのでしょう。その時代には奈良湖の湖水は完全に引いていなかったので、大和の国よりも摂津の国の方が、国力が大きかった事も十分に考えられます。

 九州地方は、筑後の国と筑前の国を取り上げました。

この中で、邪馬台国論争で最も多く語られる地域が、有明海に面した筑後の国です。筑紫平野の筑後川下流域に当たり、現代では広大な平地が広がっています。ここには、山門・八女といった古代豪族の存在を匂わす地域が含まれています。しかし残念ながら弥生時代には、そのほとんどが有明海の底か、湿地帯でした。もちろん弥生遺跡も幾つか見つかっていますので、その当時の沿岸部や湿地帯の中州のような僅かな場所に水田適地があり、そこで弥生人たちは生活していたのでしょうが、国力としては小さなものでした。

 現代でも有明海沿岸部は毎年5メートルずつ陸地が広がっていますので、江戸時代に急激に石高が増加しているのも頷けます。

 筑前の国では、現代でこそ筑紫平野や福岡平野、直方平野などの広大な平野が広がっていますが、水田適地と言えるのは淡水湖跡の沖積平野である直方平野だけです。弥生時代の筑紫平野は、甘木朝倉地域のような密林地帯や洪積層であったり、博多湾沿岸地域の扇状地であったりした為に、水田には不向きです。もちろん、三日月湖跡地や谷底低地のような局地的な水田適地はあったでしょう。しかし、全域を水田に変えるには、「土壌改良」という大がかりな土木工事が必要になってしまいます。江戸時代の石高に多少の伸びはあるものの、広大な平野がある国の割には、農業生産はショボいものでした。地理的に朝鮮半島に近い事から、弥生遺跡からは豪華な出土品はあるものの、女王國の中心地ではなく、中継貿易地のような存在だったのでしょう。現代で例えるならば、香港やシンガポールのような存在が、筑前の国という事です。

 これらのように、九州各地の邪馬台国時代では、農業生産は僅かだったと推測できます。弥生時代の状況は、縄文時代と同じように、焼畑農業や海産物の狩猟といった人口扶養力の無い食料調達だったのでしょう。

 近畿地方と九州地方との比較では、水田適地という視点から、農業生産力に大きな開きがあった事が、江戸時代の石高推移から分かります。

古代に於ける農業生産力は、そっくりそのまま国力の強さを意味します。「国の基は農業なり」、です。

 最後に、私が邪馬台国と比定した場所の石高推移を、このグラフに付け加えておきます。

 いかがでしたか?

古文書を読み解く前に、邪馬台国時代の日本列島の様子を想像してみましょう。するとそれぞれの土地の成り立ちから、水田稲作が行われていた場所、行われていなかった場所が、明確に見えてきます。九州は残念ながら水田稲作を大規模に行えるだけの天然の土地はありませんでした。一方で近畿地方には大規模に水田稲作を行える天然の土地がありました。この差が、日本列島の中心になれたか否かの違いとなったのです。