弥生時代の京都盆地は使えない僻地だった。

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの18回目。北河内・摂津の国を流れる淀川を遡ると、山背の国に入ります。京都盆地です。申し上げるまでもなく、平安時代から1200年に渡って日本の中心地だった場所です。また、それ以前にも奈良盆地や河内平野との関わりが多く、大型の古墳も存在しています。現代の感覚では、弥生時代も同じように先進的な地域だったという印象を持ってしまいますよね? しかしこれは、完全な誤りです。

 最初に、琵琶湖に水源を持ち大阪湾に流れ込む大河・淀川は、瀬田川・宇治川・淀川と地域によって名前が変わりますが、混乱を避ける為に、ここでは「淀川」という一つの名前で通す事にします。

 大阪湾から淀川を遡って行くと、摂津・北河内を経て山背の国に入ります。山背という呼称は、奈良時代の中心地だった平城京の北の峠を越えた後ろ側である、という意味から付けられたようです。現代では平安京、あるいはそのものズバリ「京都」と言えばこの地域ですよね?

 現在の京都府は、この山背の国だけでなく、丹波の国の一部や丹後の国を含めた広い地域になっています。南に位置する京都盆地が大都会であるのに比べて、北に位置する丹波・丹後は人口が少なく、とても寂しい地域ですので、古代においても同じような状況だったという錯覚に陥ってしまいがちです。

 ところが弥生時代は正反対でした。丹波・丹後が大都会であり、山背の国・京都盆地は僻地といってもいいほど寂れた、使い物にならない土地だったのです。これは、弥生遺跡から出土する遺物の豪華さから明確に表れています。丹後半島から出土する鉄の出土量は日本一多いのは有名ですし、翡翠・碧玉・瑪瑙・ガラス玉などの宝石類の出土も、北部九州を上回っています。

 それに比べて京都盆地の弥生遺跡からは、ありきたりの弥生土器が出土する程度で、特筆すべき遺物は何もありません。近畿を崇拝する研究者の心のよりどころとも言える銅鐸ですら、僅かしか見つかっていないのです。

 ではなぜ、京都盆地には顕著な弥生遺跡がないのでしょうか? それは、土地の成り立ちが大きく影響しています。

 この地図は、京都盆地を拡大したものです。盆地の北側が1200年に渡って日本の都だった場所です。また、淀川流域の南側には現在では多くの水田地帯が見られます。北側の地形は、そもそも扇状地形でしたので水田稲作に不向きな土地でした。もっぱらや焼畑農業や桑畑などの、生産性の低い農業が行われていたようです。そのおかげて8世紀に、大規模な計画都市を建設するに当たって白羽の矢が当たったのが、この地でした。平安京です。古代の産業は農業がすべてでしたので、大切な食料生産に適した土地をつぶすという愚かなマネはせず、農地として役立たずの場所が計画都市として選ばれたのでした。

 この構図は奈良盆地とよく似ています。北側の水田には不向きな扇状地に平城京が建設され、、南側に水田地帯が広がっていました。奈良時代以前の地産地消の時代には、南側の農業生産力のある飛鳥の地に強力な王族が出現してヤマト王権が成立したのは、自然な流れでした。

 一方で、同じ条件に思える京都盆地の南側の水田地帯は、古代に強力な王族が出現する事はありませんでした。これはなぜでしょうか?

 奈良盆地と京都盆地はとてもよく似た構造をしています。いずれも、河川の水が流れ出す場所は南側の地域であり、盆地の水はすべて一本の川に集中しています。奈良盆地の場合には大和川、京都盆地の場合は淀川です。

 古代にはこれらの河川の流域には湖が存在していました。奈良盆地には奈良湖、京都盆地には巨椋池と呼ばれる巨大な淡水湖でした。とてもよく似ていますよね?

 ここからが大きな違いになります。奈良湖の方は5世紀~6世紀頃にかなりの湖水が引いて、真っ平で水はけの悪い天然の水田適地が出現しました。これによって農業生産が飛躍的に伸びて人口爆発が起こり、奈良盆地の南部地域にヤマト王権という強力な勢力が出現できる下地が出来たのです。

 ところが巨椋池の方は、なかなか水が引かず水田に適した土地が剥き出しになるのは、かなり後の時代になってからです。古代に於いては農業生産が急上昇する事はなく、人口爆発が起こらず、奈良盆地のような強力な王族が出現する事も無かったのでした。実際に巨椋池の水が完全に無くなったのは、1941年(昭和16年)ですので、20世紀半ばです。現在からわずか80年前の事です。

 この写真は、昭和初期の巨椋池が存在していた頃のものです。その頃でさえ、周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルもあり、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖でした。この湖跡地は、現在でも広大な水田が広がっています。

 この地図の中央部が少し濃い緑色になっていますが、まさにその場所が昭和初期まで巨椋池だった場所です。都市化されずに現在でも広域な水田地帯が広がっています。

 この近くには現在、京阪本線や近鉄奈良線が走っていますが、水田地帯周辺を回るようなルートになっています。これは水田地帯を避けたからではなく、明治時代にはまだ巨椋池が存在していた為に、その湖岸を沿うように鉄道建設がなされたという事です。

 昭和初期まで残っていた巨椋池ですが、1800年前の弥生時代にはどうだったのでしょうか?

京都盆地南部全域を覆うくらいの規模だったと推測されます。それは、この地域にはほとんど弥生遺跡が発見されておらず、僅かに見つかっている遺跡もかなり山側に近い地域だからです。

 これほど巨大な湖があると、食料生産力が極めて脆弱になってしまいますよね? さらに盆地の北部地域は扇状地ですので水田稲作には適していません。せいぜい焼畑農業が行えた程度ですので、これまた大きな農業生産は期待できません。

 こういった地形的な要因が、古代の京都盆地に何ら見るべきものが無かったという最大の理由です。

 ちなみに、京都盆地と同じような成り立ちをしている奈良盆地もまた、5世紀頃まではほとんど同じで、僻地のような場所でした。ところが、古墳時代後期から飛鳥時代へと一気に日本の中心地へと飛躍する事になりました。

 奈良盆地の方が京都盆地よりも一足先に発展した理由は、淡水湖の湖水の深さにあったようです。

 奈良湖が存在していた場所には、弥生遺跡が幾つも見つかっています。唐古鍵遺跡や平等坊・岩室遺跡などです。低地の中の微高地に存在していますので、水田適地の中に発生した集落です。しかし、弥生時代には何度も水没した痕跡が確認されています。つまり、奈良湖の方は元々湖の深さがとても浅かったからです。湖面が下がれば湖底が剥き出しになり、湖面が上がればまた水没してしまう、という事を繰り返していたのです。この地域が安定した農地になったのは、5世紀~6世紀になってからで、人口爆発が起こり、ヤマト王権の成立へと繋がりました。

 一方、巨椋池が存在していた場所には、弥生遺跡は一切発見されていませんし、古墳時代の遺跡もありません。奈良湖に比べて水深が深かった事と、上流部に巨大な琵琶湖が存在していた為になかなか湖面が下がる事が無かったからのようです。その為に近代に至るまで湖水が引く事はなく、昭和16年に完全に農地化されるまで残っていました。

 このように巨椋池は、湖としてはとても安定した水量が確保されていたと言えますが、農耕地として食料生産するには全く役に立たない存在だったという事です。

 巨椋池が古代に於いて厄介な存在だった事を裏付ける歴史的事実があります。前回の動画とも繋がりのある内容ですが、6世紀に近畿地方を征服した継体天皇の遷都の流れです。

 北陸地方の越前からやって来た強力な豪族・継体天皇は、まず北河内の樟葉野宮に都を置きました。これは、当時の近畿地方の既存の勢力が河内平野を基盤としていましたので、その勢力と対峙する為にこの地を拠点とした事は頷けます。ところがその後、巨椋池の南西部の筒城宮に遷都し、さらに巨椋池北西部の弟国宮に遷都しています。なぜこんな面倒な遷都を繰り返したのでしょうか? 都を移すにはそれなりの理由があるはずです。古代の権力者は、現代の飾り物のような存在ではなく、実務に精通していて、現場の先頭に立って指揮する存在だった事でしょう。そういう視点から都を移した理由を考えると筋が通ります。

 古代の政治経済は農業こそが全てでした。その土地で地盤を固めるには、広大な農地と大きな農業生産が必要でした。そこでまず、新たな農耕地を開拓する為に、広大な水田地帯に成り得る場所に都を移したのです。

 まず、筒城宮は巨椋池に流れ込む木津川下流域でした。そこで水を抜いて農地を拡大する作業を行いましたが上手くいきませんでした。今度は弟国宮という桂川下流域に都を移しました。残念ながらこれも上手くいきませんでした。巨椋池の湖水が思うように引かず、農耕地を増やす事が出来なかったのです。

 やむを得ず、ほかの場所に目を向けました。それが奈良盆地であり、南部に存在していた奈良湖でした。橿原の地に磐余玉穂宮という都を設け、そこを拠点に水田開拓に勤しんだのでした。奈良湖は水深が浅く、比較的容易に広大な水田地帯へと変貌させる事が出来ました。そしてこの地こそが、ヤマト王権の起源となり、飛鳥時代の政治経済の中心地となったのです。

 これが西暦6世紀の出来事であり、奈良湖の水が引いて奈良盆地の農業生産が大きく飛躍した時期とも重なります。

また、未開の土地だった奈良盆地が「ヤマト」と呼ばれるようになったのも、同じ時期です。継体天皇の地盤が邪馬台国でしたので、それにちなんでこの地も、「ヤマト」と命名されたのでした。

 これらのように、奈良盆地と京都盆地は非常によく似た地形をしていたにも関わらず、古代に於いては異なる経歴を辿る事になりました。奈良湖と巨椋池という巨大淡水湖の水が引く時期が、1000年以上もの差が出てしまった為に、京都盆地は平安時代に入るまではほとんど見るべきところが無い場所になってしまったのです。もちろん平安京が作られたのは、南部の巨椋池があった場所ではなく、北部の扇状地地帯であり、水田稲作には不向きな場所でした。

 山背の国・京都盆地の弥生時代はあまりにも何もない場所でした。一方で、現代では京都府に組み入れられている日本海側の丹後の国や丹波の国は、弥生時代に強力な王国があった事を窺わせる豪華な遺物が見つかっています。現代とは全く逆ですね?

 日本海側の勢力は、これまで何度も取り上げて来ました通り、魏志倭人伝に記されている投馬国であり、近畿地方とは明らかに異なります。

現代の行政区分が同じ「京都府」だからと言って、弥生時代にも同じ文化圏だったわけではありません。むしろ、全く異なる文化圏であり、明確に文化が遮断されていました。

 いかがでしたか?

日本海に面する丹後の国・但馬の国・丹波の国は、現代では近畿地方に含まれています。ハッキリ言って、ほとんど目立たない地域ですね? ところが弥生時代には、日本列島でももっとも先進的な工業地帯でした。鉄器の出土量が日本一多いだけでなく、日本最古の製鉄所が存在していた可能性や、翡翠・瑪瑙・ガラス玉などの豪華な威信財の出土も突出しています。奈良盆地を中心とするエリアとは雲泥の差があります。