邪馬台国時代の大阪湾 魏と呉の紀年銘鏡 和泉・摂津

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの27回目。今回は、大阪湾沿岸地域の弥生時代に焦点を当てます。この地域は、奈良盆地や河内平野、および琵琶湖沿岸地地域に比べて、「遺跡の質」という点では格段に落ちてしまいます。海岸に面した場所は、古代に於いて湿地帯や海の底だったケースが多いので、いたしかたないところです。しかしながら、他の地域には見られないユニークな遺物もいくつかあります。

 大阪湾の弥生時代の様子は、現代とは全く違います。大阪市中心部は海の底にあり、上町台地のへりにまで海岸が迫っていました。これはなにも弥生時代に限ったことではなく、豊臣秀吉が大阪城を建てた16世紀でさえもまだ、頻繁に水没していたとされています。

 地形的に淀川水系による沖積平野ですので、長い時間をかけて平野が広がった場所です。そういう意味では北部九州の有明海沿岸地域とよく似た成り立ちだと言えます。筑紫平野の筑後川水系下流部は、弥生時代にはまだ海の底でしたよね? そういう場所には当然ながら、多くの人口を賄えるだけの農業生産は期待できませんので、古代において大きな勢力が出現できる余地は無いのです。

 この地域は、飛鳥時代からの行政区分では、和泉の国と摂津の国に分けられました。

和泉の国は、現在の大阪府南西部地域。摂津の国は、大阪府北西部と兵庫県南部地域に跨ります。

 これらの内、摂津の国の東部地域、すなわち淀川を少し遡った地域については、「北河内」として既に動画の中で紹介しています。

 ここで摂津の国の東部地域・北河内の古代の様子を再度、簡潔に示します。

このエリアの弥生時代もまた、大阪湾沿岸地域と同様にほとんどが海の底でした。従って、遺跡として顕著なものはありません。強いて挙げるならば、弥生時代末期の標式土器である「庄内式土器」が大量に出土したくらいです。

 しかし古墳時代に入ってからは急成長して、巨大古墳が多く建造されるようになりました。淀川北部地域の三島古墳群は日本有数の古墳地帯であり、河内平野南部の百舌鳥・古市古墳群と並ぶ規模を誇っています。

 また、古墳時代後期のこの地には「馬牧場」があったとされ、「河内馬飼」と呼ばれる馬飼職人集団がこの地を拠点にしていました。彼らは古代史のキーマンとも呼べる存在でした。6世紀に邪馬台国の大王が近畿地方を侵略する際に、スパイとして手助けしたのです。

 この「河内馬飼」こそが中臣氏、のちの藤原氏一族であり、邪馬台国を歴史から抹殺した諜報本人であるとの仮説を立てました。この辺の推論は、十数本の動画に分けて述べていますので、ご参照頂ければ幸いです。

 なお、近畿征服に成功した邪馬台国の大王・継体天皇の墓である今城塚古墳、および日本で最も有名な殺し屋・中臣鎌足の墓である阿武山古墳。どちらも三島古墳群の中に存在し、わずか1.5キロしか離れていません。

 摂津の国についての古代遺跡は、北河内の部分を除いてしまうと、ほとんど何も残りません。強いて挙げるならば、兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳(あくらたかつかこふん)です。この古墳は、4世紀後半の年代推定がされている直径17メートルの円墳です。どこにでもある小さな古墳なのですが、副葬品に個性があります。

 銅鏡2面・小玉・管玉・鉄製品が出土しているのですが、その中の銅鏡1面には「赤烏七年(西暦244年)」の紀年銘が認められるいます。

 この年号は、卑弥呼が魏に遣使したとされる景初3年(西暦239年)の5年後のものです。ただし魏の年号ではなく、敵対していた呉の年号です。つまり、呉の紀年銘鏡という事です。

 三国志時代の紀年銘鏡は、魏の年号のものが8面、呉の年号のものがたったの2面しか発見されていないので、非常に貴重です。近畿地方で発見されている他の銅鏡と同じように古墳時代になってから日本国内で作られたものだ、という可能性も否定できませんが、紀年銘鏡という性質から伝世鏡であると見る方が自然でしょう。どのような入手経路で、この安倉高塚古墳(あくらたかつかこふん)に副葬されるに至ったのか?

とてもミステリアスですね?

 何分サンプル数が少なすぎて、推論を立てようにも立てられない、困った銅鏡です。

 一方、同じ大阪湾地域の和泉の国からも紀年銘鏡が出土しています。

卑弥呼が魏に遣使したとされる・まさにその年、景初三年銘の画文帯神獣鏡が、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳から出土しています。この古墳も先程の安倉高塚古墳と同じ4世紀後半の年代推定がされており、形状は94メートルの前方後円墳です。

 魏の紀年銘鏡は多いとは言っても、日本列島全域でたったの8面。近畿地方では、文化圏の違う但馬・丹後・丹波を除いて、たったの2面しか出土していません。これまた困ったものです。

 卑弥呼の時代に魏の皇帝から下賜されたものであって日本製ではないとすれば、やはり他の地域から持ち込まれた伝世鏡という事になるのでしょう。

 魏の紀年銘鏡は、丹後・但馬・出雲といった日本海文化圏からの出土が多いので、この和泉黄金塚古墳の紀年銘鏡もまた、日本海側から持ち込まれた可能性は高そうですね?

 和泉の国には、とても有名な弥生遺跡もあります。池上曽根遺跡です。

大阪府和泉市池上町を中心に南北1.5キロメートル、東西0.6キロメートルの範囲に広がる拠点集落です。弥生時代の全期間を通じて営まれていたとされます。

 この遺跡で最も注目されるのは、大型建物です。復元された建物の、この写真をご覧になった方も多いのではないでしょうか?

 大型建物は、縦19.2メートル・横6.9メートル・面積133平方メートルと、弥生時代最大級の規模をもつ建物で、地面に掘った穴に直接柱を立てた掘立柱建物です。直径60センチメートルの柱が26本で構成されています。

 建物が大型である事は間違いありませんが、この程度であれば他の地域でも見つかっています。ここで重要なのは、

26本の内の17本もの柱が、根元が腐らずに残されていた事です。

 これは、正確な年代推定がなされるという事です。年輪年代推定法という、年輪が毎年異なる幅を持つ事を利用するものです。この遺跡から見つかった木材からは、紀元前52年に伐切されたものであることがわかりました。

 弥生時代中期の実際の年代が初めて明らかにされたのです。それまで考えられていた年代より百年も古くなり、その後の弥生時代末期へと続く歴史の流れに、大きな一石を投じました。

 これらのように、大阪湾沿岸地域には邪馬台国と結びつく遺跡は見つかっていないものの、興味深い遺物はありました。地形的に大きな勢力には成り得なかった場所ではありますが、そこには少ないながらも人々が生活しており、集落を形成し、大型建物も建築し、権力者が住んでいたのですね?

  いかがでしたか?

東京にしても大阪にしても、弥生時代には現代からは想像が付かないほど辺鄙な場所でした。そんな場所でも、弥生遺跡は見つかっています。

 原始的な水田稲作が始まった時代にあっては、広大な水田適地に強力な「クニ」が出現したのは自明ですが、大阪湾沿岸のような小さな「ムラ」しか発生しえなかった場所にも、細々とコツコツと人々が生活していたのですね?

そんな姿が浮かんでくるのは新鮮でした。

近畿地方に鉄器が無くて青銅器がある謎

 20年ほど前まではまだ、弥生時代の勢力を考えるのに青銅器の出土状況を参考にする研究者が多かったですね?

まあ今では鉄器の出土状況に焦点が移っていますので、青銅器は全く参考にならなくなりましたけれども。

 そんな中で、近畿地方の出土状況は興味深いです。鉄器の出土はほとんど無いのに、青銅器は結構たくさんみつかっています。これは、瀬戸内海地域や四国地方にも言える事です。これは不思議ですね?

鉄器も青銅器も、どちらも紀元前3世紀頃に北部九州に伝来したものですのでね。

 これはおそらく、鉄器は実用的な道具になるので貴重品だったのに対して、青銅器は飾り物に過ぎない、というのが大きな要因だと思います。それと、青銅の方が融点が低いという鋳造のし易さの違いもあったのでしょう。

 いろいろと理由は考えられますので、いずれ一本の動画にして鉄器と青銅器の出土状況について考察したいと思います。