神武東征の動機と問題点 馬をどう運ぶ?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

邪馬台国を歴史から抹消した氏族・藤原氏は、朝鮮半島・新羅の馬飼職人でした。弥生時代に、高句麗の圧力によって追い出されて日本列島に辿り着き、日向の国にて馬の繁殖適地を見つけた人々でした。高千穂の天孫降臨は、四世紀頃に起こった、まさに藤原氏一族の歴史だという事です。今回は、日向の国から近畿地方を目指したきっかけを推測します。それは当時の政治状況だけでなく、造船技術の進歩も関連しています。

 藤原氏の先祖は、元々は朝鮮半島の新羅あたりで馬の飼育・繁殖を行っていた集団でした。

彼らは、高句麗の圧力によってボートピープルとなってしまい、命からがら日本列島に辿り着きました。そして何世代にも渡って馬の繁殖適地を探し、ようやく見つけ出したのが、日向の国・宮崎県だったという事です。

 日本神話にある天孫降臨は、藤原氏の祖先たちが、苦労の末に日向の国に降り立ったという歴史を、神様の物語として創作したものです。

 そんな藤原氏一族が近畿地方を目指すきっかけとなったのは、一つには当時の政治状況です。

古墳時代という巨大な前方後円墳が造成されるようになった時代は、まさにバブルの時代です。大阪の河内平野を中心とするエリアは、元々は淡水湖があった場所ですが、四世紀頃にはほとんどの湖水が干上がり、広大な天然の水田適地へと変貌していました。当時としては信じられないほどの膨大な米の生産が可能になり、多くの人口を賄う事が出来るようになりました。人口爆発が起こったという事です。開拓開墾の必要の無い天然の状態で農業生産力が急上昇した訳ですので、権力者にとっては「濡れ手に粟」の、ホクホク顔でした。現代で言う「成り金」のようなものです。彼らが行った事は、国家を整備するよりも、権力を誇示する為の巨大な前方後円墳の造成でした。しかしそれは全く意味の無い土木工事でした。当然ながら、現地の一般民衆の不興をかったことでしょう。

 また、同時に近畿地方内部での権力抗争も激しくなりました。人間は不思議なもので、国が豊かになればなるほど、欲望も増大するものです。古代の理性の無い社会では、欲望は留まるところを知らず、激しい利権の奪い合いが起こるのが常です。

 そんな状況の中で、権力抗争に敗れ去ったものは、近畿地方から周辺諸国へと逃れて行きました。

四世紀頃から日本列島全域に前方後円墳が一気に広がっていますが、これは近畿地方で敗れ去った豪族たちが、日本列島全域に逃れて行った事を示しています。

 なお前方後円墳の広がりについては、一般には、ヤマト王権の支配が日本列島全域に及んだとしていますが、私はそうは思いません。近畿地方から追い出された豪族たちが、前方後円墳の文化を広げて行ったと見る方が正しいでしょう。

なぜならば、近畿地方からの文化の流出はあっても、周辺諸国からの文化の流入は無かったからです。そのために、近畿地方は「井の中の蛙」のような状態になってしまい、文化的にはとても遅れた場所になってしまいました。

 当然ながら、周辺諸国からの反発は凄まじいものになりました。そんな中で、近畿地方を目指した勢力の一つが、藤原氏の起源である日向の国の勢力だった訳です。

 九州地方最大の西都原古墳群に見られるように、古墳時代中期の五世紀頃には、日向の国にも前方後円墳の文化が及んできました。この地で馬の繁殖に成功していた藤原氏の祖先たちは、古墳の文化を受け入れたと同時に、近畿地方で何が起こっているかをいち早く察知した事でしょう。

 こういった当時の日本列島の状況が、日向の国から近畿地方へ向かおうとした端緒だったと考えられます。

但し、日向の国力で近畿地方を征服しようなどという大それた欲望まで考えていたかどうかは、疑問です。

騎馬軍団を持っていたとしても、日向の国の農業生産は貧弱ですので、大きな勢力だった訳ではないからです。

 近畿地方へ向かったのには、むしろビジネスの要素が大きかったかも知れませんね?

というもの、古墳時代中期頃までの近畿地方の古墳造成には、馬が使われておらず、全て人力だけで行われていました。「馬」という最先端技術を近畿地方へ持って行けば、土木工事には大きな需要が見込めたからです。

 これらのように、当時の政治状況やビジネスの要素などが相まって、日向の国という辺境の地から、藤原氏のご先祖様たちは近畿地方へ向かう事になったのでした。

 ここで大きな問題点がありました。馬をどうやって近畿地方まで運ぶか、という技術的な問題です。

これまで何度も指摘しました通り、瀬戸内海は世界屈指の潮流速度を持つ非常に困難な海域です。丸木舟や小型の準構造船ならば航行できたでしょうが、馬を運べるような大型の船では無理です。当時の大型船は操縦困難な安定性の無い代物でしたので、必ず座礁してしまいます。

 しかし技術というのは進化するものです。この当時に造船技術の大きな進化がありました。

それを証明する出土品が、西都原古墳群から見つかっています。最新鋭の大型船の埴輪です。

近畿地方の古墳に見られるような、実用性に欠ける飾り物の舟形埴輪ではありません。

 この西都原古墳群から見つかっている舟形埴輪の性能については、次回に述べるとして、なぜ最先端大型船が日向の国にあったのでしょうか?

 日向の国は、馬の繁殖技術には優れていたでしょうが、その他には何の取柄もありません。ところが西都原古墳群からは、優れた大型船の埴輪がありました。

 それは北部九州に存在していた古代海人族との関係性でしょう。藤原氏の先祖は、元々、北部九州に上陸して来た新羅系の渡来人ですので、海人族とは密接な結びつきが連想されます。そんな海人族が開発した最新鋭の大型船が、日向の国に伝播していたのは、ある意味当然でしょう。

 なお古代海人族は、玄界灘沿岸地域で航海や漁労に勤しんでいたとされる人々で、航海術に優れた能力を持っていました。宗像海人族が特に有名ですが、安曇氏、和邇氏、三輪氏という日本書紀に記されている海の氏族もまた、このエリアが地盤です。縄文時代から環日本海沿岸地域を半島系回りに巡航していたり、水田稲作が青森県まで迅速に伝播したのにも大きな役割を果たした人々は、彼らのご先祖様でした。

 日向の国の馬飼い氏族だった藤原氏の先祖は、北部九州の海人族と連携して、瀬戸内海という難しい海域を近畿地方へと向かったのでした。

 これを証明するかのように、神武東征の行路には、最初に北部九州へと向かっています。日向から近畿地方へ向かうだけならば、なにも北部九州へ行く必要はありません。太平洋を黒潮に乗って、紀伊半島に上陸すればよいだけです。

最初に北部九州へ向かったのには、海人族たちとの密接な繋がりを感じます。

 神武東征という神話の中にも、藤原氏がなぜこのようなルートを選んだのか? という明確な意図が見えますね?

 

 いかがでしたか?

馬の繁殖技術と、大型船の建造技術、これらを持って藤原氏の祖先は近畿地方へ向かう事になります。

なお、水田バブルに沸いた近畿地方では、意味の無い大型古墳の造成が行われましたが、それ以上の水田適地だった北陸地方の越前では見られませんでした。その理由は単純です。農閑期の冬場に大雪が降る為に、土木工事が出来なくなるからです。ここでもまた、自然作用と歴史とが密接に繋がりますね?