東夷伝 鉄の取引

 邪馬台国・卑弥呼の時代(3世紀)には、日本国内に製鉄所はありませんでした。鉄は輸入に頼っていました。

 これは、その当時の日本に技術力が無かったとは思えません。古代の製鉄所が国を亡ぼす「恐怖の工場」だったから、そして、潤沢な輸入鉄の流入によって、鉄の国産化という社会的必要性が無かったからです。

 今回は、高志の国が邪馬台国時代に「鉄」を入手した候補地の一つ、朝鮮半島南部の弁辰について調査し、考察します。

東夷伝1
魏志東夷伝の三韓

 三国志の中に、当時の日本人が鉄の取引をしていた記載があります。魏志東夷伝の弁辰(べんしん)という国の記述です。

 鉄の話に入る前に、当時の朝鮮半島の状況を整理します。

一世紀~五世紀にかけて、半島南部は、馬韓(ばかん),辰韓(しんかん),弁辰(べんしん、弁韓べんかん)という三つの地域に分かれていました。魏志倭人伝の倭国の記述と同じように、東夷伝には、それぞれの行路や、風俗・習慣などが記載されています。

 これらの地域を『三韓』と呼びます。神功皇后の三韓征伐は、高句麗・新羅・百済の三韓ではなく、この地域だったのではないか、という説もあります。

 なお、三世紀末には国に置き換わり、

 馬韓 → 百済、帯方郡

 辰韓 → 新羅

 弁辰 → 任那(みまな)

として認知されています。

 鉄の取引があったのは弁辰です。倭国の植民地だったようで、後の時代に、任那(みまな)や加羅(から)と呼ばれ、六世紀頃まで倭国の一部だったという説が有力です。

東夷伝2
弁辰での鉄の取引

 弁辰(べんしん)での鉄の取引は、次のように記述されています。

「國出鐵 韓・倭皆従取之 諸市買皆用鐵 如中国用銭 又以供給二郡」

 

鉄の出る国、韓・倭など之を取り従う 諸市で鉄を用いて買す 銭を用いる中国の如し また以って二郡に供給す

 

 とあり、倭国の植民地だった朝鮮半島南部で、鉄の取引があった事が分かります。ただし、この一文のみの記述ですので、詳細は想像するしかありません。

 朝鮮半島南部は、鉄鉱石や砂鉄が特別に豊富な地域ではありません。また、石炭も豊富というわけではありません。その地域で製鉄を行うには、

1.木炭を使った非効率的な製鉄所となります。この場合、前回の動画でも示した通り、大量の木材が必要となり、国が亡びるほどの危険な工場です。倭国がこの地域を支配していた事を考えると、この方法で製鉄を行うという、酷い搾取行為だったのかも知れません。

2.あるいは、鉄鉱石や石炭が豊富な中国東北部で製鉄を行い、それを朝鮮半島南部に輸出して、倭国と売買取引を行っていたという可能性もあります。

東夷伝3
弁辰と高志との鉄取引

 この朝鮮半島南部での鉄取引は、北部九州・出雲・高志勢力にとって、重要な調達元だったのは間違いありません。

 高志の国から朝鮮半島南部へ向かうには、対馬海流に逆らう「地乗り航法」となり、北部九州から対馬海峡を渡るルートになります。

 鉄を入手した後の輸送は、対馬海流と季節風を利用して、「沖乗り航法」で、超高速に戻る事が出来ます。以前に紹介した邪馬台国時代の高志の国の大型船舶であれば、何ら問題なく航海できたでしょう。

 高志の国からの交易品としては、姫川の翡翠があります。これは、慶州・天馬塚から大量に見つかっています。新羅の王族が鉄と交換に、高志の翡翠を入手していたのです。

 また、高志の国・敦賀を拠点として、三韓征伐を行った神功皇后は、新羅の踏鞴津(たたらのつ)にも侵攻し製鉄などの技術者を連れて帰還した、という神話があります。

 いずれにしても、高志の国と朝鮮半島南部とは、古代より密接につながっていたのでしょう。

 朝鮮半島南部の鉄の交易地・弁辰は、任那・加羅という地名となりました。六世紀中頃まで日本の植民地として、鉄の生産を行っていました。この植民地を失ったのは、527年に北部九州で起こった磐井の乱です。これもまた、高志の国との深い繋がりがあります。近畿征服を完了した高志の大王・継体天皇が、朝鮮半島の権益拡大に乗り出したのが原因の一つだったからです。

 任那・加羅の権益を失った日本は、鉄の自国生産に乗り出さざるを得なくなりました。六世紀末頃から、日本国内の辺境の地で製鉄が広く行われるようになったのは、この影響だったのでしょう。