卑弥呼の祭祀場? 特異な建物群 伊勢遺跡

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの20回目。琵琶湖のある近江の国。ここが邪馬台国だとする説があります。それは、弥生遺跡の質という点で、奈良盆地や河内平野に決して引けを取らないからです。また、古代の農業生産力という点からもかなりの大国が存在していた可能性があります。今回は、弥生遺跡に焦点を絞って近江の国が邪馬台国だった可能性を考察します。

 近江の国の弥生遺跡は、琵琶湖沿岸に点在しています。中でも南東部の野洲川流域には多くの集落遺跡があります。

拠点集落と言えるのは、伊勢遺跡です。面積は約30万㎡で、弥生時代後期としては 国内最大級の広さを持ちます。

 規模の大きさだけではなく、大型建物が計画的に立ち並んでいた事から、祭祀用に建てられた神殿ではないのか?という推測がなされています。

 邪馬台国近江説では、この伊勢遺跡こそが女王・卑弥呼が祭祀を行った空間であるとしています。

 伊勢遺跡の建物群は、とても個性的です。

5種類の大型建物が発見されているのですが、それぞれが、特別の機能を持っているようです。この内、柱の穴から推測された4つの建物の想像図は、このようになります。これらの建物は、伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものですので、神社という古墳時代から始まった祭祀用の建物の先駆けと言えるでしょう。

 1つ目の独立棟持柱付き建物は6棟あり、ほぼ同じ規格のものが円周上に配列されています。こうした建物は、弥生土器にも描かれており、祭祀に関わりを持つと考えられます。

 また、大型建物の配置が個性的で、先程の円周配列だけでなく、方形配列・すなわち四角形の線上に配列されたものものあり、それらの組合せで計画的に配置されいるのです。このような弥生集落は、日本列島のほかの場所では見られないものなので、ここが特異な場所であることが分かります。

 伊勢遺跡には、奈良盆地の纏向遺跡との共通点が2つあります。

1つは、日常用品の遺物はほとんど出土していない事です。生活臭がないのです。周囲に掘られた大溝や区画溝からもほとんど出てきません。

もう1つは、突然現れて突如消滅している事です。紀元1世紀後半から出現して、わずか100年後の2世紀末には消滅しているのです。

 纏向遺跡の場合には、平城京のような計画都市の建設を行っていた場所であり、それが道半ばで頓挫した為に、一般民衆の生活臭が無い事を、以前の動画で示しました。

 この遺跡も同じように、頓挫した計画都市なのでしょうか?

 伊勢遺跡の場合は、頓挫した計画都市とは思えません。建物の構造からも後の時代の神社の源流ですので、祭祀行事に特化した場所だと断定して良いと考えます。

纏向遺跡との最も大きな違いは、面積規模です。日本一の面積規模を誇る纏向遺跡は300万㎡もの広大なものであり、伊勢遺跡の10倍です。その中に全く生活用の日常品の遺物が無いのです。

 一方、伊勢遺跡が所在する野洲川流域に、纏向遺跡と同じ面積を当てはめてみると、このようになります。伊勢遺跡だけでなく、そのほかの多くの集落遺跡が含まれる事になり、そこからは多くの生活用品が出土しています。特に下之郷遺跡の環濠からは、当時の人々の生活や環境が復元できるような、遺物が多量に出土しています。

 この事から伊勢遺跡は頓挫した計画都市ではなく、あくまでも野洲川流域の弥生集落群の中の一つであり、特別な祭祀行事に特化した遺跡だと考えられます。

 ではなぜほんの100年ほどで、伊勢遺跡は突然消滅したのでしょうか?

これも纏向遺跡との関連があるように思えます。時代的に、伊勢遺跡が存在していたのは1世紀から2世紀、纏向遺跡は3世紀から4世紀です。奈良盆地・纏向の地に新たな計画都市を建設するに当たって、近江の国の人々が移動した。その為に、伊勢遺跡の祭祀用建物が必要無くなった、という可能性です。

  二つの遺跡には構造上の共通点もあります。最も大きなものは、運河です。纏向遺跡に運河が張り巡らされているのは有名ですが、それよりも前の時代に同じような水路が作られていたのが、この伊勢遺跡です。ここから奈良盆地の纏向遺跡への人々の移動があったのかも知れませんね? 残念な事に、公表されている纏向遺跡から出土した土器の分類に、近江型土器が無く、どの程度の割合が含まれているか、確実に近江からの人々の移動があったかどうかは分かりません。しかしながら、古墳時代前期の典型土器である奈良盆地の布留式土器は、近江型土器の影響を強く受けていますので、琵琶湖沿岸部からの人の移動があった可能性は十分に考えられます。

 以前の動画では、近畿地方の先進地域だった河内の国の人々による可能性を示唆しましたが、近江の国の弥生遺跡からは、河内の国以上に強力な勢力が存在していた可能性が匂ってきます。

 もしかすると纏向の計画都市は、伊勢遺跡を中心とした近江の国の人々が主力になって進められたのかも?

 近江の国が強力だった事は、先程述べましたように、最先端の建築技術を持っていた事だけではありません。

河内平野や奈良盆地ではほとんど発見されていない鉄器の出土が多いという特徴もあります。

 滋賀県彦根市の稲部遺跡という邪馬台国時代の大規模集落からは、多くの鉄器だけでなく、当時の近畿では最大級の鍛冶工房群も見つかっています。

 また、滋賀県野洲市の大岩山遺跡からは、24個もの銅鐸が発見されています。これは1ヶ所で発見された銅鐸の数としては近畿地方で最も多く、日本全国でも出雲の加茂岩倉遺跡の39個に次ぐ多さです。銅鐸については、用途が農地開拓の為の測量器や水準器ですので、王族が持つ威信財とは言えません。しかし、この遺跡からのものは、威信財の可能性があります。それは、王族のお墓に副葬されていた事。そして全長135cmもの日本最大で、かつ豪華な装飾がなされた銅鐸も含まれている事も根拠になります。

 これらのように弥生時代の近江の国は、奈良盆地や河内平野を凌ぐ強力な勢力が存在していた場所だと言えるでしょう。琵琶湖という日本海とを結ぶ水運から、一早く最先端文明が伝播して来たからに他なりません。

 いかがでしたか?

邪馬台国近江説には、確かな考古学的根拠があります。纏向遺跡を中心とする奈良盆地説よりも遥かに説得力があります。しかしながら、越前や丹後という日本海の先進地域と比較すると、まだまだ見劣りしますね? やはり近畿地方は、女王國のライバル狗奴国だと見るべきでしょう。その狗奴国の中心地は、これまでは河内平野であると見ていましたが、近江の国を調査する中で、こちらの可能性の方が高くなってきました。次回は、古代国家出現の基本である農業生産力の視点から考察します。

 伊勢遺跡、と言われると、つい三重県の伊勢神宮を思い浮かべてしまいますね? それほどマイナーな弥生遺跡です。どうしても近畿地方の弥生遺跡は、纏向を中心とした奈良盆地にばかり注目が集まってしまうからでしょう。しかし弥生時代の出土品の質をフラットな視点で眺めてみると、明らかに琵琶湖沿岸地域の方が優れていると思えます。それともう一点、魏志倭人伝に記されている女王國と狗奴国との対立は、琵琶湖の北部と琵琶湖の南部との戦いではなかったのか? と思うようになりました。その辺の詳細は、次回以降に示して行きます。