日本最古の超大国⑨

 八俣遠呂智へようこそ。

 記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は広大な天然の水田適地があった場所です。大規模稲作によって日本列島で初めて人口爆発が起こり、七萬餘戸もの超大国が出現したのです。

しかし、当時の大国を見つけ出すのは容易な事ではありません。

 今回は、江戸時代の石高を基に、九州地方と近畿地方のどちらが超大国だったかを分析して行きます。

 1800年前の邪馬台国時代の農業生産高を推測する一つの手法として、江戸時代の石高の記録があります。徳川家康による慶長郷帳は、石高という形で日本で最初に正確な農業生産高を表した記録とされています。しかしこれは、たったの400年前の記録ですので、そのままでは邪馬台国の推測には至りません。弥生時代から江戸時代までの1400年の間に、開拓開墾が大いに進んで人工的に水田が拡大したからです。

 邪馬台国が存在した時代には、ほぼ天然の水田適地だけで稲作が行われていました。

そこで、江戸時代を通しての石高の推移から、邪馬台国時代の農業生産高を推測します。すなわち、江戸時代から明治時代までに増加した石高が、開拓開墾の一定のペースだったとして、邪馬台国時代の石高を推定するのです。

 サンプルとしてまず、九州地方の三つの国を取り上げます。筑後の国。筑前の国。日向の国です。筑後は筑紫平野の南部に位置し、有明海沿岸の山門や八女などの邪馬台国候補地がある場所です。筑前は、筑紫平野・福岡平野・直方平野という広大な平野を有しています。また博多湾沿岸地域では、弥生時代の王族の存在を窺わせる威信財の出土が多い場所です。日向は、天孫降臨、日向三代、神武東征と続く天皇家が先祖がいたとされる高千穂がある場所です。

 これら三国は、文献史学上ではいずれも弥生時代と密接に関わっていますので、邪馬台国論争でも度々登場します。

 この表の横軸は西暦、縦軸は石高です。左端が邪馬台国時代の西暦200年、右端が明治時代初期の西暦1900年頃となります。

 では早速プロットして行きましょう。まずは、江戸時代・1607年の慶長郷帳の石高です。

筑後の国は、30万石。筑前の国は、52万石、日向の国は、29万石。となっています。

 筑前の国が最も大きな石高となっていますが、日本列島全体を見ればそれほどでもなく、広い平野がある割には小さな石高です。日向に至っては、現在の広大な宮崎平野と対比すると、あまりにもお粗末ですね。

 これが明治時代の1872年には、筑後の国は、54万石。筑前の国は、63万石、日向の国は、42万石。となっています。

 江戸時代の265年の間に、開拓開墾が進んで、それぞれ石高が伸びています。特に筑後の国の伸びは大きいですね。

これは、筑紫平野を流れる筑後川の堆積作用によって、有明海沿岸地域に水田が大きく広がった事が要因です。有明海では現代でも一年間に5メートルずつ陸地が広がっているとされていますので、筑後の国がどんどん大きくなって行ったのは頷けます。

 これらの江戸時代の石高の増加が弥生時代から同じペースで続いてきたとして、邪馬台国時代の石高を推測してみます。すると、筑後の国は 鎌倉時代、筑前の国は 古墳時代、日向の国は 平安時代、でそれぞれ農業生産が無かった事になります。

 邪馬台国時代を想像してみましょう。

これら九州各地では、水田稲作はほとんど行われておらず、強力な勢力が出現する下地、すなわち農業生産が無かった事が分かります。

 次に近畿地方です。サンプルとして三つの国を取り上げます。河内の国、大和の国、摂津の国です。河内は大阪府東部に位置し、巨大古墳が密集している百舌鳥古墳群が近くにありますので、古墳時代の中心地だったと推定される場所です。大和は言うまでもなく飛鳥時代から日本の中心地となった場所です。摂津は大阪府北部の淀川下流域に位置しており、古墳時代には河内の国に次ぐ巨大古墳が造成された場所です。

 これら三国は、文献史学や考古学などという理屈を抜きにしても、間違いなく古墳時代以降の日本の中心地となった場所です。

 では江戸時代初期の石高です。河内の国は、26万石。大和の国は、44万石、摂津の国は、29万石。となっています。

 なお、大和と摂津については、1607年の慶長郷帳を用いましたが、河内の国については、江戸時代初期に一部の地域が隣国の和泉の国に転籍されましたので1644年の正保(しょうほう)郷帳の記録を用いています。

 これが明治時代の1872年には、河内の国は、29万石。大和の国は、50万石、摂津の国は、42万石。となっています。

 九州の考察と同じように、これらの江戸時代の石高の変化が弥生時代から同じペースで続いてきたとして、邪馬台国時代の石高を推測してみます。すると、このようになります。

 三つの国とも邪馬台国時代には農業生産は非常に少なかったものの、古墳時代に日本の中心地となった河内の国は20万石程度の石高はあったと見られます。巨大古墳が造成された時代に、河内の国が最も国力があった事が分かります。また、飛鳥時代に日本に中心地は大和の国に移りましたが、このデータからもその傾向が表れています。一方、摂津の国は、平安時代に農業生産が無かった事になります。

 河内の国や大和の国は、古代に於いて河内湖や奈良湖といった巨大淡水湖があった場所です。その湖水が干上がって天然の水田適地となりました。一方、摂津の国は淀川の堆積物によって徐々に水田が広がって行った場所ですので、石高の推移と国力の相関が取れているのが分かります。

 では、近畿地方の河内と大和、九州地方の筑後と筑前の、四つの国の石高推移を重ねてみましょう。

実線が近畿、点線が九州です。

明らかですね。大きな水田適地があった近畿地方の方が江戸時代での石高の伸びは少なく、その分、古代においては相対的に大きな石高があった事が分かるでしょう。一方、九州地方は水田適地が少なく、古代に於いてはほとんど農業生産が無かった事が分かります。

 但し、どちらも邪馬台国時代には小さな国力しかなかったでしょう。

魏志倭人伝に記されている七万余戸もの超大国は、九州にも近畿にも存在しません。

 では最後に、私が邪馬台国の場所だと比定している越前の国の石高推移を重ねます。

 いかがでしたか?

今回の考察では、九州、近畿ともに、邪馬台国時代には人が住んでいなかった事になってしまいます。もちろんそんな事はありません。開拓開墾のスピードは室町時代以降に加速度的に増加していますので、直線的な推測に無理があるのは重々承知しています。しかしながら、「広大な天然の水田適地があった場所」を推測するには、十分な参考資料になるのではないでしょうか?