末蘆国から見える 邪馬台国の場所

 魏志倭人伝の邪馬台国への行路によると、九州上陸の最初の国が「末蘆国」となっています。

現代の佐賀県から長崎県に掛けての広い地域は、江戸時代まで松浦(まつら)と呼ばれていましたので、このエリアで間違いないでしょう。

 これは多くの研究者が比定していて異論の無いところなので、詳細についてはあまり議論になっていません。今回は魏志倭人伝の描写に沿って、末蘆国の様子と隣の伊都国との関係を推測します。

 すると、末蘆国を始点とする日本国内の行路には角度のズレがあり、それを修正すれば「邪馬台国の場所」が見えてくる事が分かります。

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末蘆国

 末蘆国は、魏志倭人伝に記されている倭国の中の国の一つです。

 魏志倭人伝によれば、一大国から海路1000里あまりで到着するとされ、次の目的地・伊都国までは、陸路500里 とされています。

 一大国は長崎県壱岐島、伊都国は福岡県糸島市エリアに相当しますので、距離から推定して、佐賀県唐津市から伊万里市に掛けての地域とみなす研究者が多いようです。

 この地域は、古来より松浦と書いて「まつら」と呼ばれていましたので、音韻上も一致しています。ちなみに江戸時代の行政区分の松浦郡は、佐賀県唐津市エリアから長崎県五島列島までの広い範囲でしたので、この全域を末蘆国として調査します。

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小国

 魏志倭人伝によると、次のような描写があります。「有四千餘戸濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之」。住居は4000戸ほどで、海と山のすれすれに住んでいる、草木が盛んに茂っていて前を行く人が見えないほどだ、魚やアワビを捕ることが好きで、水の深い浅いにかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。と記されています。

 住居は、伊都国よりも四倍も多いのですが、国の領域が広いので妥当でしょう。地形はリアス式海岸ですので、海岸線に沿って住居を構え、海産物の狩猟で生業を立てていた様子が、窺えます。また、草木が多く茂っている様子は、陸地の手入れがなされていなかった様子が見て取れます。

 狭い平地面積なので水田稲作はおろか、畑作農業さえも発達していなかったのではないかと考えられます。

なお日本列島で最も古い水田遺構は、この末蘆国の菜畑遺跡から発見されています。水田稲作の古さと、水田稲作が大規模に行われる事とは、相関関係はまったくありません。

 これらの事から、末蘆国は北部九州の中で、辺境の地という扱いだったようです。

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出島みたい

 このように末蘆国は漁業だけで成り立っていた寒村ですので、魏志倭人伝の記載にもその立ち位置が表れています。それは、日本列島に最初に上陸する地点にも関わらず、一大率という入国管理局は伊都国に置かれていた事からも分かります。また、女王国に属するとされる国も伊都国からですので、末蘆国は女王国には属さず、しかも女王国と敵対している訳でもない、という中立地帯のような存在でした。これは最初の上陸地である事にも説明がつきます。

 壱岐島から九州に渡って来る場合、距離的には末蘆国が最も短いのですが、海を渡る場合には、必ずしも最適な場所ではありません。対馬海流を利用した場合には、伊都国や奴国へ直接渡る方が容易です。それをしなかった、あるはそれをさせずに末蘆国に上陸させたのには、女王国の思惑が見て取れます。

 女王国の主要なポジションを占める奴国へ、外国の船団が直接入り込む事を嫌ったからでしょう。少し離れた末蘆国というあまり重要ではない中立地帯へ上陸させたのです。そこから背振山地というリアス式海岸の断崖絶壁を移動させるという困難な作業をさせ、伊都国でようやく入国審査を受けさせるという手段を取ったのではないでしょうか。

 末蘆国は、いわば江戸時代の長崎・出島のような場所だったのでしょう。

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方角90度のズレ

 末蘆国から伊都国への陸路の方角は、ほとんど議論される事はありません。ところが客観的に見れば、明らかに重要な示唆が含まれている事が分かります。そこには、最終目的地である邪馬台国への行路で、常に議論となる方角の答えが隠されています。

 魏志倭人伝では、末蘆国から伊都国へ東南の方角へ向かうとされています。ところが実際には、明らかに北東方向です。実際よりも90度ずれているのです。同じように、伊都国から奴国へ向かう方角も90度ずれています。これは何を意味するのでしょうか。当時の中国の最先端技術で方角を間違える訳がありません。ということは・・・。

 当時の日本では現代の方角の考え方とは90度ずれていたのです。そうすれば、全てが理に適います。つまり、

 末蘆国 ⇒ 伊都国 魏志倭人伝では東南500里となっていますが、実際は北東方向へ500里

 伊都国 ⇒ 奴国  魏志倭人伝では東南100里となっていますが、実際は北東方向へ100里

となります。これをその後の行路を修正して当てはめます。すると、

 奴国 ⇒ 不弥国  魏志倭人伝では東へ100里となっていますが、実際には北へ100里となり、不弥国は宗像や直方平野の遠賀川河口域になります。まさに方角を90度修正すれば、九州内での行路と国の場所が、ピタリと一致します。

 さらに不弥国からは日本海を船で移動します。

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邪馬台国の場所

 不弥国 ⇒ 投馬国 魏志倭人伝では南へ水行20日ですが、九州での行路と同じように90度修正すれば東へ水行20日、

 投馬国 ⇒ 邪馬台国 魏志倭人伝では南へ水行10日ですが、実際には東へ水行10日

このように、日本列島内での行路をすべて90度修正すれば、目的地・邪馬台国へ到着します。従いまして、九州・末蘆国からの行路で見えてくる女王国の都・邪馬台国は、北陸地方・越前の国です。

 15世紀の朝鮮の古地図でも、日本列島は90度ズレて描かれています。九州が北にあり、本州が南に伸びているのです。邪馬台国時代よりも前の古地図であれば、認識不足・知識不足として片付けられます。しかしそれは、1200年も後のものです。この事から、日本列島の方角は古代から近世に至るまで、誤認されていたのは明らかでしょう。

 末蘆国については、女王国には属さないほどの辺境地でありながらも、弥生時代の日本列島の玄関口だった事から、面白い遺跡や出土品が満載です。次回は、考古学的な視点から末蘆国を眺めてみます。