黒潮の作用か? 土佐の銅矛

 こんにちは、八俣遠呂智です。

山陽道・四国シリーズの9回目。今回は海洋学からの考察を行います。

この地域の弥生時代の出土品の特徴に、銅矛が多い事があげられます。可能性として、日本海側の出雲から流入してきたものと考えるのが自然です。ところが、太平洋側の土佐の国からの出土数もかなりの数に上っています。これは、黒潮の作用ではないか? という推測を立てました。

 弥生時代の勢力分布を考察する一つの手段として、青銅器類の出土分布があります。

1970年に作成されたこの図のように、銅剣は九州地方、銅鐸は近畿地方を中心に出土している、という説が一時期流行して、中学校の歴史教科書にも掲載されていた時期がありました。

 ところが現在では、青銅器の分布から弥生時代を考察する事は無くなりました。1990年代に出雲地方から大量の銅鐸や銅剣が出土した為に、この分布図は全く意味をなさなくなってしまったからです。また同じ時期に、丹後地方や北陸地方からの鉄器の大量出土もあった事も一つの理由です。

 青銅器と鉄器は、日本では紀元前3世紀頃という同じ時期に伝来したものです。どちらが重要な金属からは、申し上げるまでもないでしょう。飾り物でしかない青銅器に対して、鉄器は実用品です。当然ながら現在では、鉄器の出土の方が重要視されるようになっています。

 今回は、山陽道・四国から出土している青銅器に着目しました。これは、この地域の弥生時代の遺物が、青銅器以外には、残念ながらほとんど価値のあるものが見つかっていないからです。

 出土数量が多いのは、北部九州や出雲地域。山陽道・四国では、瀬戸内海沿岸地域と太平洋側の土佐の国に万遍無く分布しています。

 分布の上で、際立った特徴は見られませんが、強いて挙げるならば2点あります。

 まず1点目は、瀬戸内海地域の中でも、周防灘に面した地域からはほとんど出土がありません。

これは、関門海峡という世界屈指の潮流速度を持つ海峡による、文化の断絶があったからでしょう。

これまで何度も瀬戸内海の困難さを取り上げてきました通りです。古代の大型船は技術が非常に稚拙ですので、あっさり座礁してしまう海域です。

 もちろん、遥か昔の縄文時代から、技術が原始的で操縦が単純な小舟による行き来はあったでしょうが、大型船で簡単に行き来するのは無理でした。これを証明するように、周防灘沿岸地域での弥生遺跡は空白地帯です。

吉備の国周辺から出土する青銅器類は、日本海側の出雲から中国山地を越えてもたらされたと見る方が自然です。

 なお、こういう事をいうと、瀬戸内海信奉者は必ず、

「古代の技術は想像以上に進んでいた」

と反論し、古代からの瀬戸内海航路を主張します。いいえ、そんな事は決してありません。技術というのは、一歩一歩地道に進化して行くものです。弥生時代の瀬戸内海は、確実に「閉ざされた海」です。古代技術のファンタジーは、心の中にそっとしまっておきましょう。

 古代の大型船がいかに稚拙だったかは、1970年代から実証実験がなされています。「野生号プロジェクト」、「なみはや号プロジェクト」、「大王の棺プロジェクト」、です。

 これらの実験結果がいかなるものであったかは、再度申し上げるまでもありません。

 この分布でのもう1点の特徴は、太平洋側の土佐の国からは、銅矛の出土が多い事です。

青銅器が出雲から流入しただけならば、瀬戸内海沿岸地域が最も多くなるはずです。しかも、四国の地形は、中央構造線から南側は、険しい山々が存在していますので、文化が伝播するには海岸線を迂回しなければなりません。この場合、鳴門海峡や速吸の瀬戸という、世界屈指の潮流速度がある海域を通らなければなりません。

もちろん、四国山地を越えて伝わった可能性もありますが、出土数が太平洋側の方がはるかに多い事から、何かほかの事情を考察してみる必要があります。

 仮説の一つとして、太平洋を流れる黒潮の作用が考えられます。つまり、中国大陸から黒潮に乗って流れ着いた王族の携行品だった可能性です。

 紀元前8世紀から紀元前3世紀までの中国では、春秋戦国時代でした。長江下流域の呉の国と越の国が対立していた事で有名ですね。この時代に限らず、中国は常に戦争ばかりしていました。そして、戦いに敗れ去った王族がボートピープルになって、一部の者は日本列島に流れ着きました。

 水田稲作の伝来についても、長江下流域からのボートピープルが日本列島に流れ着いた事によるもの、という説が現在の定説になっています。これは対馬海流に乗って北部九州に辿り着いた例ですが、黒潮に乗った場合はどうでしょうか?

その場合、南部九州や四国の太平洋側に流れ着く事になるでしょう。これらの地域は、水稲栽培には適さない場所ですので、稲作文化は根付きませんでした。しかしながら、青銅器という王族の威信財という形で、中国文化が伝来したのかも知れませんね? 伝来時期は水田稲作よりもずっと後の紀元前三世紀頃ですが、中国大陸では断続的にボートピープルが発生していましたので、たまたま運よく土佐の国に流れ着いた王族が存在したのでしょう。そして彼らの権力の象徴は、銅矛だったという訳です。

 なお、中国人はそもそも農耕民族です。日本の縄文人のような海洋民族ではありません。当時の海洋航海技術はかなり稚拙でした。大量のボートピーブルが発生しても、ほとんどが海の藻屑となったでしょうし、たとえ日本列島に漂着したとしても、現地の倭人に殺害されたと考えられます。数百年にも及ぶ中国からのおびただしいボートピープルの中で、ほんの一千分の一、一万分の一の人々が、日本列島で生き延びる事ができたと想像します。

 一部の古代史研究家の中には、弥生時代における四国と中国大陸との相互交流を唱える者もいます。

しかしこれはないでしょう。黒潮は一方向にしか進みません。しかも世界で最も早い海流です。中国大陸から運よく四国に流れ着いたとしても、四国から中国大陸へ流れ着く事は、象が針の穴を通るようなものです。

 また、時代の連続性もありません。土佐の国の青銅器は、弥生時代のほんの一時期のみのものです。その前の縄文時代の遺物や、その後の古墳時代・飛鳥時代・奈良時代の遺物からは、中国大陸との交流を匂わす遺物は、全くありません。

 少し話は逸れますが、中国大陸との相互交流があったのは、日本海沿岸地域です。弥生時代の鉄器分布でよく知られているように、妻木晩田遺跡から青谷上寺地遺跡を経て丹後半島、さらには越前の林藤島遺跡での出土数量が北部九州を上回っています。これは、リマン海流と対馬海流の作用によるものです。鉄鉱石や石炭の産地である高句麗から持ち込まれた鉄器類が、これらの地域に分布しています。一方向の文化の流れではなく、双方向です。

 縄文時代には、縄文土器が日本産の黒曜石が沿海州から見つかっていますし、奈良時代以降の遣渤海使の窓口は、越前の国・敦賀でした。渤海国は高句麗の後継国で、奈良時代から平安時代に掛けてヤマト王権と交流があった国です。この航路は、能登半島から対馬海流に乗って北上し、さらにリマン海流に乗って西へ向かって、渤海国へと到着していました。この航路が示すように、日本海を反時計回りに移動する事によって、中国大陸との相互交流があったのです。

 いかがでしたか?

土佐の国の青銅器からは、中国大陸からの文化の流入の可能性があります。しかし、残念ながら相互交流はありません。かと言って、中国大陸との窓口は、北部九州だけだったわけでもありません。縄文時代の、環日本海文化圏とも言える相互交流の歴史があるのは、日本海沿岸地域です。四国の弥生遺跡から見えてくる古代史は、やはりここでも自然条件・自然作用が大きく影響している事です。

 次回からは、邪馬台国論争の重要な比定地・近畿地方へと入って行きます。