日本最古の超大国②

 記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は未だに分かっていません。魏志倭人伝にあるヒントはたったの二つ。朝鮮半島からの行路と、七萬餘戸という超大国だったという事だけです。このシリーズでは、弥生時代という日本列島に人口爆発をもたらした食糧事情から、超大国が出現したメカニズムを解き明かして行きます。前回は、日本列島における超大国は、広大な天然の水田適地でなければならない事を示しました。今回からは、具体的な内容に入って行きます。

 弥生時代の超大国を見つけ出す上では、広大な水田適地が存在している場所でなければなりません。現代では、日本全国どこへ行っても見られる水田稲作の風景ですが、稲作文化が伝来したばかりの弥生時代では、自然条件がそろった場所でしか見る事はできませんでした。

 では実際にどのような場所が天然の水田適地なのでしょうか? 地形や土壌、気候など、様々な条件が考えられますが、まずは地形、すなわち土地の成り立ちから入ります。

 これは、中学校の社会科で学習するレベルの、地形の成り立ちです。決して幼稚な内容ではなく、日本に於ける土地の成り立ちの基本の全てが、ここに詰まっています。

 主な地形では、扇状地、三角州などがあります。

この中で、天然の水田稲作に適した土地は、河川の蛇行による三日月湖跡地、干潟となった潟湖跡地、山間部や盆地の淡水湖の水が引いた谷底低地、河川の下流部に見られる三角州や湿地帯が干上がった一部の土地です。

 これらの土地は、粒子の細かい泥状の土なので、栄養が豊富な上に水はけが悪いので、天然の水田稲作地帯となりました。また、土地の傾斜も緩やかで平坦ですので、細々と畔を作る必要もありません。

 一方、扇状地は水はけが良すぎて水田には不向きですし、三角州や湿地帯は淡水や海水によって冠水してしまいますので、穀物栽培には適しません。

 また、河川の堆積によって既に形成されていた平地部分は、現代でこそ広大な農耕地になっていますが、弥生時代には沿岸部にしか水田適地がありませんでした。残りの大部分は手入れがなされない為に密林地帯となっていました。関東平野や筑紫平野がそれに当たります。

 こうしてみると、国土の80%が山岳地帯である日本に於いて、天然の水田適地の面積は極々わずかだったという事が分かります。

 そんな劣悪な環境の中で、日本人のご先祖様たちは細々と田んぼを作って、大切に稲を育てていたのです。

B:  ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B:  今の日本列島の大きな平野のほとんどは、大きな川が作った沖積平野でしょう? 関東平野だって、筑紫平野だって。でもどうしてそこには水田適地が少なかったって言えるんですか?

 

A: 現代の感覚で弥生時代を見ちゃダメよぉ? 当時の海岸線は随分と上流域だったのです。関東平野ならば埼玉県の中部、筑紫平野ならば久留米市あたりが海岸線でした。現代の東京湾沿岸や、有明海沿岸地域は、海の底や湿地帯だったのです。そして湿地帯が干上がった地域だけが、水田に適した場所でしたので、面積としてはほんの僅かしかありませんでした。

 

B:  じゃあ、少し上流に遡った地域では、水田適地が広がっていたんじゃないですか?

 

A: それはありません。水田稲作が始まるよりもずっと前の時代に平地となった部分は、人の手が加わらなかった為に、湿地帯から草原地帯、そして密林地帯へと変貌してしまったのです。でも縄文時代にはそれでも良かった。なぜならば、密林地帯での狩猟や木の実拾い、あるいは焼畑農業のような人口扶養力のない、効率の悪い食料調達を行っていたからです。

 

B:  なるほど。縄文時代の人口は弥生時代の十分の一くらいしかいなかったんですものね? それに水田稲作が無かった時代にわざわざ平らな土地を利用しようなんて、考えなかったでしょうね?

 

A: そうよ。縄文時代から弥生時代に進化して初めて、平野を利用しようとしたのです。ところが簡単に水田に利用できる場所は少なかった。大きな川が流れているから、弥生時代もそこに大きな水田地帯が広がっていたなんて、考えちゃダメよ。

当時の広大な水田適地がどんな場所だったか、次回の動画で説明しますから、しっかり聞いてね?

 

B:  はーい。

 話を元に戻します。

現代における広大な平野は、関東平野、濃尾平野、仙台平野、筑紫平野などがありますが、これらは先に示しました通り、河川による沖積平野ですので、弥生時代には水田適地はそれほど多くはありませんでした。

 では、どのような土地の成り立ちが大きな水田適地だったのでしょうか?

それは、干潟となった潟湖跡地や、盆地のような淡水湖の水が引いた谷底低地、です。

具体的な理由は次回の動画で説明するとして、今回は典型的な場所を示します。

 最も分かりやすいのが近畿地方です。

 この写真は、大阪府と奈良県を南側から見たものです。

弥生時代には、現在の大阪市の中心部は海の底で、上町台地を挟んだ東側の河内エリアには巨大淡水湖が存在していました。また、奈良盆地の南部にも巨大淡水湖が存在していました。

 弥生時代末期からこれらの淡水湖の水が引き始め、徐々に天然の水田適地が広がるようになります。

 3世紀頃には河内湖だった場所が広大な水田地帯となって人口爆発が起こり、古墳時代という黄金期を迎えることになります。大阪府堺市の百舌鳥古墳群のような巨大な古墳が出現する基盤が築かれたのです。また、6世紀頃には奈良湖だった場所が水田となって人口爆発が起こり、飛鳥時代という黄金期を迎える事になりました。

 このように淡水湖跡の沖積平野は、古代の国家が出現する為の必要条件だった訳です。

 なぜ近畿地方が日本の中心地になったのか? 

なぜ、筑紫平野や濃尾平野や関東平野ではダメだったのか?

という疑問に対する答えが、ここにあったのです。

 なお、巨大古墳を造成した事によって、水田が広がったと主張する古代史研究家もいますが、これは明らかに本末転倒です。水田が広がったから巨大古墳を作る余力が出来たのであって、巨大古墳を作ったから水田が広がった訳では、決してありません。

 干潟となった潟湖跡地は、近畿地方だけではありません。日本海沿岸各地の平野や、「盆地」と呼ばれる平地のほとんどは、淡水湖跡の沖積平野です。

 主なところでは、九州の菊池盆地、直方平野、山陰地方の出雲平野、北陸地方の福井平野、東北地方の新潟平野、などがあります。しかし、古代においてこれらの全てが水田適地だった訳ではありません。湖の水が引く時期によって、平野が現れた時期は様々です。有名なところでは、新潟平野は昭和初期まで沼地が多く、水田稲作に適した土地は限られていました。現代の感覚では、巨大な米どころですが、古代では「不毛地帯」といってよいほどの辺鄙な場所でした。

 天然の水田適地という視点からは、古墳時代以降、日本の中心地が近畿地方だった事に議論の余地はありません。では、それ以前の弥生時代、すなわち邪馬台国の時代はどうだったのでしょうか?

 その時代の近畿地方は、巨大淡水湖の水はまだ引いておらず、巨大国家が出現する基盤が出来上がっていませんでした。

 次回の動画では、水田適地の構造説明と同時に、近畿地方よりも一足先に淡水湖の水が引き、日本で最初に巨大国家が出現した場所を特定して行きます。その場所こそが、邪馬台国と言えるでしょう。

 日本における古代国家が出現する基本は、天然の水田適地です。米の栄養価だけでなく、連作障害が無いなどの、畑作物とは比べ物にならない「人口扶養力」があるからです。古代史研究家の多くは、文献の上でだけ古代国家を想像している為に、四国のような焼畑農業しか行われていなかった場所を邪馬台国と比定する輩も存在します。巨大な水田適地によって人口爆発が起こり、縄文時代では見られなかった一極集中型の巨大国家の出現。それこそが邪馬台国です。