古代船の真の姿

 邪馬台国時代(三世紀)の「鉄」の運送手段を検証しています。

前回は、八世紀の遣渤海使や遣唐使に使われた船舶が、三世紀には造られていた可能性を検証しました。

 古代船は、室町時代までは準構造船だった事が明確になっていますが、その具体的な性能は、どのようなレベルだったのでしょうか?

 実際に平成元年に、埴輪から復元した古代船を使って、航海した実証実験がなされていますので、その結果を基に、三韓征伐の航海術や航海ルートを推定して行きます。

 今回は前段階として、遣隋使や遣唐使で使われた瀬戸内海航路の航法までを考察します。

古代船の真1
なみはや号プロジェクト

 弥生時代の船舶については、銅鐸や土器などに描かれた『絵』から推定して、『準構造船』である事が分かりました。

 船首が上に突き出ていて、指揮官や複数の漕ぎ手、そして小さな十字型の帆柱があるのが特徴です。

 古代の準構造船は、実証実験がなされています。平成元年に、「大阪市なみはや号プロジェクト」という大規模な企画がありました。

 舟形埴輪を10倍の大きさにし、実際に木造船として作って、大阪から瀬戸内海を進み、玄界灘を渡って釜山までを航海してみる実験でした。

 直径2メートルの丸太を使っての古代船の復元という成果はありましたが、船の性能や航海術という点では、期待に反して散々な結果に終わりました。

 その結果の概要です。

古代船の真
なみはや号の問題点

 まず、実際に海に浮かべてみると、非常に安定性が悪く、50センチ程度の波でも傾いてしまいました。その為、船底に数百キロの重りを入れて、安定性を確保しました。

 ところが、そうする事で船が非常に重くなり、なかなか進みません。漕ぎ手という人力の動力が、意味を為さなくなってしまったのです。

 また、風力を利用する為の大きな帆柱などは、もってのほかでした。帆柱を立てられるほどの安定性がないのです。

 結局、瀬戸内海の潮流に流されるばかりで、舵取りも容易ではありませんでした。

人力の動力は、方向を変える役割くらいです。

風力の利用はされませんでしたが、帆柱を立てるとすれば、補助的な小さなものしか無理、という事でした。

 銅鐸の絵の帆柱が小さいのは、現実だったようです。

 なお、このプロジェクトは、イベントとしての成功を装う為に、一応、釜山まで到着しました。

 実は、夜の間に他の船に牽引してもらっていたそうです。なんとも、お粗末な話です。

古代船の真3
古代船の特徴

 このプロジェクトで明らかになった事は、古代の準構造船は、ほとんど『漂流船』と言っていいほどの代物だったという事です。この船で航海するには、優先順位として、

第一に、潮流にうまく乗る事が絶対条件。動力は潮流という事です。

第二に、人力での推進力は、ほとんど役に立たず、潮流に乗る為の舵取り操作や、陸地に接岸したり離岸したりする際の役割です。

第三に、帆柱は小さなものしか立てられず、風力を利用するのは、あくまでも補助的な役割に留まっていたと思われます。

 この船の利点としては、物資の運搬船としての役割は、十分に果たせそうな事です。実験では、安定性を確保する為に数百キロの重りを入れましたが、重りの代わりに『鉄』を入れれば、鉄の運搬船となります。

古代船の真4
瀬戸内海ルート諸説の限界

 実証実験結果から、潮流の変化が激しい瀬戸内海航路の開拓が、日本海航路に比べて遅れていたのも、説明が付きます。

 これにより、航海術の現実にそぐわない空論や、後の時代に作られた神話が見えてきます。

1.邪馬台国畿内説の瀬戸内海ルート

2.邪馬台国九州説のヤマト東遷説、瀬戸内海ルート

3.神武東征の瀬戸内海ルート

これらは、準構造船で移動するには困難でしょう。

 なお、遣隋使・遣唐使の時代には瀬戸内海航路が開拓されており、難波津から出航した記録が残っています。

 造船技術が弥生時代末期と変わっていなかった現実を鑑みると、難波津から丸木舟の船団を組んでいた可能性もあります。準構造船のように、物資を輸送する必要もないので、軽い丸木舟の方が理にかないます。

古代船の真5
遣唐使船は丸木舟

「なみはや号プロジェクト」は、航海術の検討が不十分だったのかも知れません

。しかしながら、『潮流依存』と『物資の運搬』という準構造船の特徴は掴めたと言えるでしょう。

 八世紀の遣唐使では、難破や遭難が多く発生しています。当時の中国大陸の技術を取り入れていたとしても、準構造船は不安定で、命がけの航海だったようです。

 まして、三世紀の邪馬台国や三韓征伐の時代は、いかに・・・?

 次回は、この「なみはや号プロジェクト」の結果から、三韓征伐の航路の可能性を、探って行きます。