藤原氏が燃やした 古事記・日本書紀よりも古い歴史書

 こんにちは、八俣遠呂智です。

邪馬台国は藤原氏一族にとって憎むべき存在だった事を、これまでに示してきました。古事記や日本書紀に登場しないのは、編纂時の権力者・藤原不比等の意向が強く働いた事によります。記紀よりも前の時代に存在していた歴史書には、邪馬台国や卑弥呼の記述が当然のようにあった事でしょう。今回は、ライバル蘇我氏によって書かれ藤原氏によって灰燼に帰した歴史書たちを辿って行きます。

 学校教育では、奈良時代に完成した古事記や日本書紀が、日本で最も古い歴史書だと教えています。あたかも、それ以前には何の歴史書も無かったかのような扱いです。しかしそんな事はないですよね? 

それ以前にも多くの歴史書が存在していましたが、飛鳥時代の蘇我入鹿殺害事件、いわゆる乙巳の変などの動乱期に、燃やし尽くされてしまったのです。なぜ分かるかと言えば、日本書紀自らが、その存在を明確に記しているからです。

 残念ながら日本書紀以前の歴史書の内容がどのようなものだったのか、今となっては知る術もありませんが、古事記や日本書紀の内容とは全く違ったものだった事は間違いないでしょう。なぜならば、古事記や日本書紀が藤原氏一族の息の掛かった歴史書であるのに対して、闇に葬られた歴史書は敵対した蘇我氏一族の息の掛かった歴史書だったからです。

 藤原氏の歴史書では全く登場しない邪馬台国や卑弥呼の記述。蘇我氏の歴史書では、必ずや明確にその存在が記されていた事でしょう。

 では、古事記や日本書紀よりも古い歴史書を上げて行きます。

最も有名なところでは、国記や天皇記があります。正確な読み方は「くにつふみ」・「すめらみことのふみ」ですが、ここでは「こっき」と「てんのうき」としておきます。

 これら二つの書物は、聖徳太子と蘇我馬子が編纂して成立したとされる書物です。聖徳太子は第26代・継体天皇の曾孫であり蘇我氏の傍系血族ですので、明らかに蘇我氏一族の手による歴史書と言えます。

説。倭国の風土・地理を記した地理書であるとする説。などがあります。

 一方、天皇記は、その名の通り歴代の天皇を記したものだと推測されます。蘇我氏一族が関与した天皇家の系譜ですので、藤原氏一族が関与した日本書紀とは、大幅に異なった真実が書かれていた事でしょう。

 この2つの書物の他にも

、巨連伴造国造百八十部(おみむらじ-とものみやつこ-くにのみやつこ-ももあまりやそともの)という、周辺諸国を収めていた国造を記した書物もありました。

 これら3つの書物の存在は、日本書紀に記されています。推古天皇28年(西暦620年)の条に、

「皇太子・嶋大臣(しまのおおおみ)共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、巨連伴造国造百八十部(おみむらじ-とものみやつこ-くにのみやつこ-ももあまりやそとものを)併せて公民等の本記(あわせて-おおみたからどもの-もとつふみ)を録す。

とあります。

皇太子とは聖徳太子で、嶋大臣(しまのおおおみ)とは蘇我馬子の事です。国記などの三つの書物が編纂された事が明記されています。

 日本書紀での国記・天皇記についてはさらに、皇極天皇4年(西暦645年)・乙巳の変での下りがあります。

「蘇我蝦夷等誅されむとして悉(しつ)に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾(と)く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献(たてまつ)る」

蘇我入鹿が殺害された後、その父親の蘇我蝦夷も殺されるのを悟って、天皇記や国記や宝物を焼こうとしました。その時、船史恵尺(ふねのふびとえさか)という人物が、燃やそうとしている国記を取り出して、中大兄皇子に献上した。

となっています。

 つまり、日本書紀の中では蘇我氏が自ら歴史書を焼こうとした事になっているのです。これはおかしいですね? 宝物を燃やそうとするのは当たり前です。敵に財産を奪われるくらいならば焼き払ってしまおう、という考えはいつの時代も同じです。

 ところが天皇記や国記は、蘇我蝦夷の父親である蘇我馬子が編纂した歴史書です。自らの一族が主役となって描かれた歴史書を燃やしたところで、何の得があるのでしょうか? 古い歴史書が燃えて無くなって喜ぶのは、敵である中大兄皇子であり、中臣鎌足の方です。蘇我氏の方に燃やす理由はありません。

 これはどうやら、藤原氏の息が掛かった日本書紀なればこその、陰湿な書き換えだったのではないでしょうか?

中臣鎌足が焼き払ったと明記すれば、悪者は自分になってしまいますからね。ここは取り合えず、自分は「古い歴史を大切にしていた」という事にしておけば、日本書紀の正統性がより引き立ちますからね?

蘇我氏の時代に書かれた歴史書を大切にした上で、新しい歴史・日本書紀が作られたとなれば、万人が納得するでしょうし、日本書紀には真実が書かれていると信じてしまいますものね?

ここでも藤原氏のずる賢さが目立ちます。

 もし仮に日本書紀の記述が正確ならば、その後の国記はどうなったのでしょうか? 中大兄皇子の手に渡ったはずですが?古事記や日本書紀という新しい歴史書を作るに際しては、国記の内容を尊重して書かれて然るべきですが、何の説明もありません。確実に言える事は、天皇記と同じように、国記もこの世から無くなったという事だけです。

 中大兄皇子や中臣鎌足が本当に古い歴史書を大切にしていたのならば、国記を大切に保管していたはずですが?

ところが、そんな事は全くないのです。

 聖徳太子と蘇我馬子によって編纂された三つの書物は、乙巳の変を境にこの世から完全に消えてしまいました。

答えは明らかです。

 中大兄皇子や中臣鎌足が、意図的に古い歴史書を消し去ったのです。そして日本書紀の中では、燃やしたのは蘇我蝦夷だった。蘇我氏こそが悪人だ、とした訳です。死人に口なし。藤原氏、とことんあくどいですね?

 蘇我入鹿が殺害された後の蘇我蝦夷の行動について、とても納得できる部分もあります。「珍宝を焼く」という下りです。持っていた宝物をこの世から失わせたのです。これは、乙巳の変を境に、この世から消え去った「翡翠」の存在を窺わせます。

 翡翠硬玉は、日本列島で最も価値の高い宝石です。この産地は、新潟県糸魚川市の姫川だけで産出されます。現代では常識なのですが、これが常識になったのは昭和初期の事です。つい最近ですね?

 北陸地方出身の蘇我氏一族の財源だった翡翠硬玉は、乙巳の変を境にプツリと無くなってしまいました。藤原氏が分からなくなっただけでなく、糸魚川に鉱脈がある事すら人々の記憶から失われてしまったのです。もちろんその後、宝石としての流通が無くなったのは言うまでもありません。

 飛鳥時代から昭和初期までの1300年間、翡翠鉱脈があるのは東南アジアのミャンマーである、と人々は信じ込んでいました。

 このミステリーは、実は乙巳の変で自害した蘇我蝦夷の大手柄だったのです。敵である藤原氏一族に宝物のありかを知られるくらいならば、闇の中に葬ってしまおう。そんな思惑が日本書紀に記された「珍宝を焼く」という下りであり、見事に翡翠の所在地を人々の記憶から消し去ったのでした。藤原氏にやられてもタダでは済まさない蘇我氏の凄さですね?

 この辺の事情については、以前の動画「歴史から消された邪馬台国⑥」にて述べていますので、ご参照下さい。

 翡翠の存在を人々の記憶から消し去った蘇我氏一族。邪馬台国の存在を人々の記憶から消し去った藤原氏一族。

一筋縄ではいかない氏族たちですね? 飛鳥時代の権力抗争が、翡翠と邪馬台国という2つのミステリーを作り出しました。

 翡翠は昭和初期に謎が解き明かされました。そして邪馬台国は、令和初期に謎が解き明かされました。

となりそうですね?

 いかがでしたか?

古事記や日本書紀よりも古い歴史書は、国記や天皇記のほかにも幾つか存在が知られています。帝紀、旧辞、上宮記、などがあります。この中で上宮記については鎌倉時代まで存在していた事が確実な書物なので、興味深いです。また、偽書として見向きもされない歴史書もあり、中には現存しているものもあります。

次回は、乙巳の変で失われた歴史書以外の書物について、調査・考察して行きます。