三国志と後漢書 ちょっぴり違う邪馬台国の記述

 こんにちは、八俣遠呂智です。

日本最古の超大国・邪馬台国に関する記述は、魏志倭人伝だけではありません。西暦440年に成立した後漢書倭人伝にも記されています。内容は、ほとんどが魏志倭人伝からの引用ですが、一部異なる内容も含まれています。今回は、後漢書の倭人に関する記述の異なる点に焦点を絞ります。

 前回の動画では、三国志よりも前の時代の後漢の歴史書が、国が滅んでから220年後、三国志が完成してから150年も後に成立した経緯を示しました。後漢書という歴史書は范曄(はんよう)という人物によって編纂され、倭人に関する記述も含まれています。内容としては、魏志倭人伝を引用した上で幾つかの修正がなされたものとなっています。

 では、具体的な相違点を示します。

 まず、割愛された箇所です。

1.邪馬台国までの行路や、女王国に属する30ヶ国の国々の記載

2.魏の国と女王国との交流。すなわち、倭国から魏の皇帝へ朝貢した内容や、魏の使者が倭国へやって来た内容

3.卑弥呼の死と、宗女・壹輿に関する記述

これら3点を割愛した上で、幾つかの内容を追加しています。

1.後漢の時代の倭国との交流

2.編纂者・范曄(はんよう)の解説や、ほかの歴史書からの引用

などがあります。

 これらの変更修正は当たり前な事で、後漢は3世紀前半には既に滅んでいましたので、その時代に起こっていなかった出来事は極力排除して、後漢の時代に起こっていた出来事を付け加えたという事です。あくまでもこの書物は後漢に関するものですので。

 これらの変更修正での良い点は、後漢の皇帝が倭国へ印綬を下賜した、という内容を追加した事です。博多湾の志賀島で発見された金印がこれに当たるのではないか? という想像を掻き立てられますね。

 しかし残念な点の方が多いですね? 魏志倭人伝からは一歩も踏み出す事の無い記述しか無いのです。倭国に関する新しい情報は、全くが見えてこないのです。

 もちろん好奇心の強い古代史研究家たちは、個々の相違点をもって様々な曲解を行っていますが、あまりにも根拠が希薄になってしまいます。

 では、細かい個々の相違点を示します。

まず、邪馬台国までの行路や女王国に属する30ヶ国の記載が無い代わりに、邪馬台国については次のような記述があります。

 其大倭王居邪馬臺國

「その大倭王は、邪馬臺国に居す。」

となっています。

 魏志倭人伝には、

女王之所都

「ヤマイチコク、女王の都する所」

とありましたので、それを以って編纂者・范曄(はんよう)は、倭国の王が邪馬台国に住んでいると勝手に理解したのでしょう。

 また、「邪馬臺国」という記述はこの後漢書からのもので、魏志倭人伝にはありません。魏志倭人伝には、「邪馬壹国」となっています。長い年月を何度も写本されていますので、どちらが間違いか?どちらが正解であるかは闇の中です。

 また、魏志倭人伝には、

自郡至女王國 萬二千餘里

「郡より女王国に至るには12000餘里」

冒頭に「帯方」という記述がある事から、帯方郡から女王国までが12000里、となっています。

一方、後漢書では、

楽浪郡徼去其國萬二千里

「楽浪郡境は、その国を去ること、12000里」

となっています。

 この違いは、当時の政治状況を反映しています。

魏志倭人伝が記された3世紀には、帯方郡(現在のソウル市周辺地域)は、中国・魏の植民地でした。ところが後漢書が記された5世紀には、中国は宋の時代になっており朝鮮半島から撤退していました。その為に、帯方郡ではなくその北部にある楽浪郡(現在の平壌周辺地域)からの距離と誤解していたようです。

 また、この直前に先ほどの、 其大倭王居邪馬臺國

「その大倭王は邪馬臺国に居す。」

という記述があった事から、楽浪郡から邪馬臺国までが12000里、というニュアンスになっています。

 さらに、魏志倭人伝では諸国連合国家である女王国までの距離が12000里と明記されていたにも関わらず、あたかも邪馬台国までの距離が12000里であると誤解を与えるような記述になっています。

 邪馬台国はあくまでも女王の都です。広域的な諸国連合である女王国とは異なります。現代で例えるならば、邪馬台国は東京都、女王国は日本国のようなものです。

 編纂者の范曄(はんよう)は、魏志倭人伝の内容を割愛する中で、邪馬台国と女王国の区別が付かなくなり、このような記述になってしまったのでしょう。まあ、倭国に関する事は後漢書の中のほんの一部なので、あまり気にしていなかったか、あるいは読解力が弱かったようですね?

 なお、この邪馬台国と女王国との同一視は、編纂者の范曄(はんよう)だけではありません。現代の邪馬台国九州説支持者も読解力が弱く、よく曲解していますよね? 行路の起点が帯方郡にしても楽浪郡にしても、12000里先は九州島以外にない、という結論ありきの恣意的解釈です。これはいけませんね? 後漢書にあいまな記述があるからと言ってそれを流用してはいけません。元ネタはあくまでも魏志倭人伝です。そこには、女王国までが12000里と明記されている以上、邪馬台国までが12000里では決してありません。ほかの解釈の余地がない記述は、正確に理解しなければなりませんよね?

 さて、後漢書には細かい点で異なる記述がまだまだたくさんあります。しかし大局的に見れば、些細な違いですので、これ以上は取り上げません。

 要は、後漢書に記されている倭人伝は、編纂者の范曄(はんよう)によって変更が加えられたのであって、魏志倭人伝から一歩進んだ新しい事実は、何もないのです。

 後漢という三国志よりも前の時代の出来事を、三国志よりも150年も後に書いたという無理があり、それを補う為の曲解が随所に見られるだけ、という事です。

 邪馬台国や卑弥呼の記述が見られるものの、比定地論争の中では魏志倭人伝しかテーブルに載りません。それは、後漢書の倭人伝は魏志倭人伝からの引用に過ぎず、編纂者によって都合よく編集された内容だからです。

 やはり邪馬台国論争では、魏志倭人伝がすべてですね?

 いかがでしたか?

後漢書倭人伝については残念な内容でしたが、中国史書というのは信用できますよね? 24の正史がありますが、いずれも王朝が滅亡した後に書かれたものだからです。存続している王朝に忖度する事なく、公平な視点から書かれているのは素晴らしいです。それに比べて日本の正史は? 日本書紀が編纂された当時の王朝は、現代でも存続しています。それでも皆さんは日本書紀を信じますか?