瀬戸内勢力の中心

 邪馬台国の候補地の少数派の中で、出雲説に次いで人気のあるのが、吉備(岡山)説です。

 吉備は、弥生時代後期の個性的な墳丘墓、古墳時代の巨大な前方後円墳などから、大きな政治勢力があったと見られています。

 しかしながら、弥生時代末期の農耕地面積は僅かしかありませんでした。海の民・瀬戸内勢力の本拠地だったのかも知れません。

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吉備の国は瀬戸内海の要衝
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現代の吉備(岡山県)平野部

 上の右の地図は、現代の岡山市周辺です。平地は、岡山市・倉敷市に見られますが、これらは後の時代に川からの堆積物や、干拓工事で平地を増やして出来たものです。弥生時代末期には、平野部のほとんどは海の底でした。農耕に適した土地は、総社市周辺の平地だけでした。淡水湖跡の沖積層で、水田稲作には適しています。しかし、直径3キロほどの小盆地なので、山陰地方の出雲平野や、豊岡盆地にも及びません。

 個性的な墳丘墓がある事で知られる楯築遺跡は、総社盆地から南へ1キロのところにあります。弥生時代末期には、海岸沿いでした。楯築遺跡は墳丘墓の形と、特殊器台・特殊壷が出土された事で有名です。鉄器についは、鉄剣がわずかに出土した程度です。当時の瀬戸内海は、現在よりもさらに島が多く、その拠点として、吉備・総社が機能していたのかも知れません。なお、古墳時代に入ると、作山古墳という巨大な前方後円墳が出現します。これは、全国第十位の規模です。

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弥生時代末期の吉備
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大国になるには、耕地面積が狭すぎる

 このように、吉備の国は個性的な遺跡はあります。しかし農業は小規模で、鉄器の出土も僅かです。邪馬台国のような大国となれる要素は少ないです。

 可能性として、瀬戸内海の元締めのような役割だったのでしょう。近畿・九州間は、七世紀の遣隋使の頃まで航路が確立しなかったと言われます。

 吉備の国は、瀬戸内海の通行権益を握る強力な存在だったのです。