邪馬台国と投馬国の境界線 神功皇后から見える勢力図

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの23回目。邪馬台国とそのライバル狗奴国とは、琵琶湖を挟んで敵対していました。北部には日本海勢力の女王國。南部には近畿勢力の狗奴国。という構図です。冬場の雪に悩まされる女王國にとって、近畿の快適な気候と近江の国の豊饒な農業生産は、垂涎の的だった事でしょう。

 前回は、琵琶湖北部の古代氏族・息長氏の地盤から日本海勢力との関係を示しました。今回は、邪馬台国時代の勢力図という角度から琵琶湖北部の立ち位置を考察します。

 邪馬台国のライバル狗奴国は、近畿地方の事ですが、その中心地はどうやら琵琶湖南東部の野洲川流域だったようです。これまでは、河内平野や奈良盆地が中心地と見ていたのですが、それらよりも近江の国の農業生産力の方がダントツに優位である事。伊勢遺跡から出土した弥生遺物の質という点でも、纏向遺跡などを圧倒している事。などが理由です。

 ところが、琵琶湖北部になると弥生文化の性質に異なる点が見られます。それは、鉄器の出土が多くなる、などの日本海側の女王國と同じ特徴が見られる上に、文献史学上でも日本海勢力との強い結びつきがあった事が分かりました。

 これまでは、女王國と狗奴国との境界線は若狭湾と琵琶湖を隔てる峠あたりと見ていましたが、どうやら間違いだったようです。琵琶湖の中心部よりもやや南あたりが境界線のようです。

 これにより、色々な謎が解けてきます。

 前回の動画の繰り返しになりますが、女王國に属する投馬国と邪馬台国との位置関係です。以前の推測では、投馬国は但馬・丹後・丹波エリア、邪馬台国は越前エリアとしてきました。その中間地点である若狭の国は、狗奴国との「中立地帯」、あるいは「紛争地帯」と見ていました。しかしこれを改めます。

 女王國の範囲は、若狭湾を越えて琵琶湖北部地域を含むエリア。

 投馬国は、但馬・丹後・丹波、および若狭と近江の北西部地域。邪馬台国は、越前に加えて近江の北東部地域です。

これによって、解かれる謎は。

・女王・卑弥呼が住んでいた場所

・投馬国の農業生産力

・東海地方の鉄の出土

 女王卑弥呼が住んでいた場所です。これまでは、越前の北部地域の農業生産力が高く、ここに卑弥呼が存在していたとしてきました。

 しかし、文献史を信用するならば、若干違ってきます。

卑弥呼のモデルとされる神功皇后は、琵琶湖北東部に地盤を持っていた古代氏族・息長氏の子孫です。諱が「息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと)」ですので、息長氏一族である事を明示しています。神功皇后が都としたのは日本海側の角鹿笥飯宮、現在の福井県敦賀市です。魏志倭人伝に記されている邪馬台国は、「女王の都する所」ですので、敦賀が邪馬台国となります。なお敦賀は古代の日本の行政区分において、越前の国に属します。越前の北部地域は豊饒な農業生産がある場所ですので、「七万余戸」という記述にも一致する場所です。

 この越前の国・全域が邪馬台国であり、卑弥呼が住んでいたのは敦賀という事になります。

一方でその支配地域は息長氏の地盤である琵琶湖の北東部にも及んでいました。現在の米原あたりです。ここが敵国である狗奴国との境界線であり、両者が対峙していた場所です。卑弥呼は越前の北部の穀倉地帯を離れて、狗奴国との前線基地ともいうべき敦賀に居を移していたと考えられます。

 次に投馬国です。

これまで投馬国は、但馬・丹後・丹波のエリアとしてきました。この中で特に丹後半島からの弥生遺跡は秀逸で、鉄器や宝石類など、北部九州をも上回る超豪華な出土品があります。しかしながら、この地域の農業生産力はとても貧弱です。但馬や丹波こそ淡水湖跡の天然の水田適地ですがその規模は小さい上に、丹後半島にはほとんど農業生産力

がありません。

 魏志倭人伝に記されている投馬国は、「五万余戸」という邪馬台国に次ぐ大国だったとされています。一戸当たり6人住んでいたとして、30万人、すなわち30万石以上が必要です。残念ながら、但馬・丹後・丹波だけではそのような人口を賄えるだけの農業生産はありません。というよりも遠く及びません。弥生遺跡こそ豪華なものの、そこに住んでいた人々がごく僅か、という事になってしまいます。これでは、北部九州と同じですね?

 ところが、琵琶湖北西部地域や若狭の国もまた、投馬国の一部だったとすれば、この矛盾が解決されます。具体的には、安曇川流域の穀倉地帯、現在の滋賀県高島市エリア、若狭湾の小浜エリアです。高嶋と小浜とは、峠一つ隔てた場所にあります。この地の弥生文化は、投馬国と同じで、方形周溝墓や破砕土器などが発見されています。また鉄剣の鋳造が行われた上御殿遺跡からは、日本最古の鋳型「双環柄頭短剣」(そうかんつかがしらたんけん)が出土しています。この点でもまた、近畿地方の文化とは一線を画していますよね?

 この琵琶湖北西部、および若狭の国もまた投馬国の一部だったとすれば、鉄器文化の一致だけでなく、農業生産の点からも、投馬国・五万余戸を満たす事になります。

 邪馬台国と狗奴国との位置関係をこのように仮定する事で、さらに東海地方における弥生時代の鉄器の出土状況とも一致してきます。

滋賀県彦根市から見つかっている稲部遺跡からは、大規模な鍛冶場跡地や鉄器類が出土しています。これはまさに日本海側の越前や丹後に見られる遺跡と共通しています。奈良盆地や河内平野、さらには伊勢遺跡でさえも、鉄器の出土がほとんど無いのとは対照的です。

 そして、米原から峠一つ越えた関ケ原は東海地方です。東海地方の鉄器の出土量は、奈良盆地や河内平野を遥かに上回っています。

 仮に琵琶湖全域が狗奴国の支配地域だったとした場合、鉄の出土状況に辻褄が合わなくなりますよね?

なぜならば、奈良や河内に存在しない鉄器が、東海地方に多く存在しているという矛盾です。

 邪馬台国の範囲を息長氏の勢力範囲まで拡大すれば、その矛盾も解決しますよね?

 諸国連合国家である女王國。狗奴国とはライバル関係でした。しかし、連合国だった邪馬台国と投馬国とは、敵対していた訳ではなくて、琵琶湖の北部地域を分け合うように共存していたとすれば、様々な矛盾が解けてきます。それは、邪馬台国時代だけでなく、それから250年後の、継体天皇による近畿地方征服とも、完全に一致する事になります。具体的には、

・継体天皇の出生の地、および

・東海地方・尾張氏との関係

などです。この詳細は、次回以降に持ち越す事にします。

 いかがでしたか?

今回は、神功皇后という神話の人物を元に考察してしまいました。私は、根拠の希薄な文献史は出来るだけ排除していますが、どうしてもつまみ食いしてしまいます。それはある程度やむを得ないですよね? 文献が無ければ、何の歴史も語れなくなってしまいますから。常に心掛けているのは、根拠の希薄な文献であっても何らかの元ネタはあっただろうという推測と、それに適合する考古学的史料、地政学的要因、自然科学的な作用です。文献だけからの曲解はしていないつもりです。

 羽衣伝説をご存じでしょうか? 日本全国に存在する天女伝説です。一番有名なところでは、おそらく静岡県の三保の松原ですね? ただしこれは、江戸時代に創作されたとする説が有力です。

 日本で最も古い羽衣伝説は、奈良時代に記された丹後国風土記と、近江国風土記です。ともに渡来人伝説が昇華したもののようです。丹後国風土記については浦島太郎伝説の原点でもありますので、丹後半島は渡来人伝説の源流だとも言えますね?

 一方、近江国風土記の羽衣伝説は、琵琶湖北東部の余呉湖という小さな湖が舞台です。この位置関係をみて頂きたいのですが、今回の話と通じますよね? 女王國に属していた投馬国と邪馬台国、という事になります。

 それから日本書紀の神話ですが、新羅からの渡来人である但馬の天日槍と敦賀の都怒我阿羅斯等。この両者は同一人物であると、明記されています。ここでもまた、投馬国と邪馬台国の共通項が見えてきますね?

 琵琶湖北部から若狭湾地域は、いっぱい渡来人がやって来た場所なので、それだけ文明が進んでいただろうし、古代にはとても重要な場所だった事が、お伽話や神話からもよく分かりますね。