馬の渡来人 大陸からの先進文明

 こんにちは、八俣遠呂智です。

邪馬台国を歴史から抹消した氏族・藤原氏について、これまで七回に渡って考察して来ました。ところが文献史学からは、「どこの馬の骨とも分からぬ氏族」、だという姿しか浮かび上がりませんでした。そして、ほんの僅かしかない藤原氏の系譜から、日向の国の豪族だと推測しました。歴史的事実は、西暦500年頃からが確実ですので、その時代に日向にて勃興した経緯について考察します。藤原氏にとってなぜ邪馬台国が不都合な存在だったのか? という推測の端緒です。

 藤原氏の始祖は、天児屋命という神様とされていますが、これは神話の人物です。ただし、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊に随伴したとされますので、日向の国・高千穂に起源を持つ事が推測されます。

 では神話ではない、現実世界とのすり合わせを行ってみましょう。

古事記や日本書紀に記された天皇家の歴史を紐解くと、初代・神武天皇が日向の国からやって来た事になっています。

しかしこれは、考古学的な史料との一致は全くありませんので、神話とみなします。また神武天皇に限らず、第25代・武烈天皇までも、考古学的な史料はありません。従いまして、実在の確かな最も古い天皇は、第26代・継体天皇からとなります。この根拠は、以前の動画・「最古の天皇 考古学的実在性」にて示していますので、ご参照下さい。

 継体天皇は、北陸・越前の地から出現した大王で、当時の農業生産力では近畿地方を遥かに凌いでいました。国力という点からも、越前が近畿を征服して、新しい王朝が始まったと考えるのが自然でしょう。

 これは西暦500年頃の出来事ですので、まさにこの時代からが日本列島の現実的な歴史となります。

 西暦500年以降の時代を考察してみましょう。

 中臣氏一族や蘇我氏一族もまた、この継体天皇が近畿地方を征服してからが、現実的な歴史の始まりとなります。

この時代の大きな特徴として、中国大陸からの多くの文物が近畿地方に流れ込んでいる事です。政治的にも技術的にも革命が起こっていた時期、いわば古代の明治維新のような状況でした。一般にこの時代は、飛鳥時代の直前の古墳時代後期という括りにされていますが、別な一つの時代、あるいは、飛鳥時代初期をこの時代にまで遡らせてもおかしくありません。

 ではなぜ近畿地方に革命が起こったのかを、地政学的な視点から見てみます。

 これは、日本列島と中国大陸を180度回転させた地図です。日本海には、対馬海流とリマン海流が流れています。

ここから明らかに分かる事は、近畿地方は中国大陸から見れば、そもそも内陸部だという事です。文化的に日本海沿岸地域に先進文明が流れ着き、それよりもはるかに遅れて文化が伝播する後進地域が太平洋側だった事が良くわかります。

 さらに、西暦500年よりも前の近畿地方は、巨大古墳の造成という馬鹿げた意味の無い土木工事にうつつを抜かしていました。そのため、文化的には日本海勢力に大きく後れを取っていました。そんな中で、継体天皇に征服された事によって、ようやく文明の光が差し込んで来たのです。

 西暦500年代には、百済と繋がりの深かった継体天皇や蘇我氏一族をはじめとする人々が、様々な文物を近畿地方にもたらしました。

政治体制では、百済仏教の導入や五経博士があります。

百済仏教については蘇我稲目、五経博士については蘇我馬子や聖徳太子に受け継がれて、日本列島の律令国家・中央集権国家体制が推し進められることになりました。

 技術的なものでは、大型船の建造技術や、馬の繁殖技術があります。

古墳時代中期までの大型船は稚拙なものでしたので、瀬戸内海を渡る事はできませんでした。せいぜい丸木舟や小型の準構造船が行き来する程度でした。

 また馬についても、近畿地方で繁殖が成功したのは、この時期です。それは、馬型埴輪や馬具類の出土があるのは、古墳時代後期に入ってから、だからです。

 これらの現実的な歴史の中で、中臣氏一族が関わったのは、技術的な分野だったと推測します。すなわち、馬の繁殖と、大型船の造船です。

 日向の国は、これまで何度も取り上げました通り、馬の繁殖適地です。水田稲作には適さない土地ですので、大きな人口を賄えるだけの国力はありません。しかしながら、騎馬民族として強力な軍隊を編成できる土地柄ではありました。

 藤原氏一族の先祖・天児屋命は、そんな日向の国から出現した豪族の一人だったのです。

 日本列島に馬が伝来したのは、弥生時代末期の二世紀頃、あるいはそれ以前だと考えられます。大陸では騎馬民族国家・高句麗が朝鮮半島を南下して勢力を拡大していたからです。その影響で、朝鮮半島東岸に位置していた新羅の国から多くのボートピープルが発生しました。新羅もまた、早くから馬の生産が行われていた地域ですので、ボートピープルは馬を伴って海に漕ぎだした事でしょう。そして、一部の者は北部九州へ、また一部の者は、日本海沿岸地域へと流れ着きました。

残念ながらそれらの地域は、馬の繁殖には適さない場所でした。弥生時代から何度も何度も日本列島に馬が伝来したにも関わらず、そのほとんどが死滅してしまいました。そして実際に繁殖が始まったのは、繁殖適地が見つかった四世紀頃、すなわち古墳時代に入ってからです。

 北部九州に辿り着いたボートピープルは日向の国。日本海沿岸地域に辿り着いたボートピープルは北関東にて、それぞれ馬の繁殖に成功しました。

 日向の国については、それを根拠づける遺跡や出土品があります。

宮崎県の六野原地下式横穴墓群8号墓からは、日本で最も古い馬の骨が見つかっています。轡(くつわ)を口に装着したままの姿で墓に葬られていましたので、人間の手によって繁殖・飼育されたものである事は明らかです。これは、西暦450年頃のものですので、実際にはもう少し古い時代から日向の国に騎馬民族国家が成立していたのでしょう。

また同じ時期には、九州島最大の古墳群がこの地域に出現しています。西都原古墳群です。ここからは最古級の馬具類の出土がありますので、騎馬民族国家という仮説を裏付けるものです。

 ちなみに、近畿地方での馬の骨の出土は、日向の国よりも100年ほど遅くなります。出土地は、古墳時代の中心地だった生駒山麓や旧河内湖周辺の遺跡からです。また馬具類の出土も、近畿地方は日向の国よりも遅れています。

 このように、中臣氏の先祖は、元々は朝鮮半島の新羅あたりで馬の飼育・繁殖を行っていた人々でした。

彼らは、高句麗の圧力によってボートピープルとなってしまい、命からがら日本列島に辿り着きました。そして何世代にも渡って馬の繁殖適地を探し、ようやく見つけ出したのが、日向の国・宮崎県だったという事です。

 日本神話にある天孫降臨は、藤原氏や天皇家の祖先たちが、苦労の末に日向の国に降り立ったという歴史を、神様の物語として創作したものだったわけです。

 なお日向の国は、古代の大型船の建造技術とは無縁と思えますが、西都原古墳群の出土品からは、最新鋭の大型船の埴輪が見つかっています。

 瀬戸内海という世界屈指の困難な海域を、近畿地方まで渡って行くには、高度な造船技術が必要です。そして、それを可能にした大型船もまた、日向の国にはあったのです。

 この続きは、次回に持ち越します。

 いかがでしたか?

初歩的な歴史解説書では、古墳時代や飛鳥時代に渡来人が近畿地方にやって来て、大陸文明を伝えた。と単純に記載されています。間違いではありませんが、近畿地方は中国大陸から見れば、内陸部の後進地域です。先進地域である日本海沿岸地域や九州地方を、棒高跳びのように飛び越えて、直接文明が入ってくるわけがありません。

 蘇我氏や藤原氏という強力な氏族の出現もまた、大陸からの文明の流れと強く結びついているのは間違いないでしょう。