邪馬台国へ行ってきた④

こんにちは。八俣遠呂智です。

 

卑弥呼の墓の重要資料の紹介です。

 

タイトルは、

「丸山古墳出土の器台について」 です。

 

内容は二部に分かれており、卑弥呼の墓・丸山古墳

についてと、発見された祭祀用器台についてです。

 

今回は、卑弥呼の墓・丸山古墳についての

内容を読み上げて行きます。

 

なお、卑弥呼の器台は1954年に発見されて、

復元されたのは12年後の1966年。

 

その際に復元に当たった

「沼弘 様」 という方の報告です。

では、原文をそのままご紹介します。

 

遺跡の概要

 丸山古墳は福井市の北東部、九頭竜川扇状地扇端と足羽川扇状地扇端とがほぼ接する平野のほぼ中央、海抜55.7mの独立小陵、「丸山」山頂に位置する。

 ここは、福井平野を一望することのできる景勝の地である。したがって、その立地条件からも古墳が営造されたことは当然といえよう。

 しかし、いかなる理由か、この山頂に古墳が営造されたことについての報告はみあたらない。

 したがって、遺跡の存在に気づかずに、昭和29年3月、福井市の丸山配水池築工事が行なわれ、頂上部約10m程がけずり取られたのである。

 ところが工事着工後まもなく土器破片が出土し、関係者の手によって福井市立郷土歴史館に保管されたのであるが、当時あまり注目されなかったのか、何ら記録されることなく10数年の間放置されていたのである。

 この土器を実見して資料としての貴重さにおどろかされた。

 土器は3片ではあるが十分に器形の推察は可能であり、復元の結果から当地方において、いまだ類例をみない器台土器であることが明らかとなった。

 そこで遺跡の性格を知るために、工事用実測図を入手すると同時に、工事関係者をたずねて、当時の様子を聞いたのであるが、期待するような結果は得られなかった。

 それによると、土器破片と同時に鉄サビの刀のようなものがあったと記憶しているが、現在どうなっているかはしらないとのことであった。

 しかし、鉄器が出土していることに、ほぼ確実であろう。

 実測図は土取用のものであまり正確ではないが遺跡の復元に役だった。すでに消滅している現在、推察の域を出ないが、種々の状況から判断してこの山頂に古墳が営造されていたことはまちがいなかろう。

 実測図から見て、その営造は自然丘を利用して行なわれ、墳形は円墳または前方後円墳ではなかったかと考えられる。山頂部は小さく複数の営造は困難と思われるところから独立墳と推察されるのである。

 その規模は、円墳の場合は、径21m、高さ2.7m前後、また前方後円墳の場合は、全長35m、後円形21m、後円の高さ2.7m、前方部中6m、前方部高0.9~0.6m前後のものであろう。

 このように、1966年(昭和41年)に報告がされていました。

現在となってはかなり古い報告書ではありますが、当時としては画期的だったと思います。

卑弥呼の墓・丸山古墳から土器が偶然発見されたのが1954年(昭和29年)ですので、当時としては12年も前に見つかって放置されていた遺物を蒸し返したものでした。それを復元して報告書を作成されたのは大手柄でした。

 この報告書の中で注目すべきは、鉄器の出土があったことです。

工事関係者からの聞き取り調査ではありますが、「鉄サビの刀のようなものがあった」ということは、祭祀用の器台と合わせてこの地に強力な権力者が眠っている事の、十分な根拠になります。

 一方で、この工事によって頂上部のほとんどが掘削されてしまったという、残念な事実も垣間見れます。頂上部の10メートルほどの掘削ですので、竪穴式の場合には完全に滅失してしまった事でしょう。

 ただし私の推測は、埋葬場所は頂上部ではなく、南側にある踊り場からの横穴式だと見ていますので、問題はありません。

 墳形については、円墳または前方後円墳との考察がなされていますが、これは丸山という山の形状からの推測ではありませんでした。測量図面から、頂上部に盛土で墳墓が作られたという考え方でした。

 この報告書を作成した沼弘様のお手柄で、現在、卑弥呼の墓の確固たる証拠とすることができました。

 報告書から54年間も博物館の収蔵庫に眠り続けさせてしまいましたが、そのお陰で、卑弥呼が1800年間の眠りから覚める事になりそうです。