瀬戸内海ルートの開拓

  古代に日本海航路を開拓したのは、高志の国・能登に起源を持つ海人族『安曇氏』です。中国大陸や朝鮮半島を巡回する航路は、高志の国に、多くの文明をもたらしました。

 一方、太平洋や瀬戸内海での中国へのルートは未開でした。日本海に比べて、航海の難しい海だからです。これを解決したのが、安曇氏と思われます。高志の大王・継体天皇の近畿侵略に大いに活躍し、拠点を難波津(現在の大阪市)に移動し、瀬戸内海ルートを開拓しました。

 今回は、能登の海人族・安曇氏の近畿での実績を、現代に残る地名などから推測します。

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古代の瀬戸内海航路[邪馬台国]

 瀬戸内海ルートについては、神武東征という神話がありますので、一見、紀元前から開拓されている航路のように思われがちです。しかし、弥生時代から古墳時代までの出土品の流れから、近畿-九州間の文物の流れは寸断されており、実際には、かなり後の時代に開拓されたようです。瀬戸内海は、波が穏やかで気候も温暖というイメージがありますが、古代の船で移動するには非常に難しい海です。鳴門海峡や関門海峡でも知られている通り、島々の間を抜けるには潮流の変化が激しく、細い海峡だらけの困難な海なのです。さらに、島々で気流が遮られる事で、風向きの変化も激しいというのが特徴です。

 瀬戸内海航路が使われ始めたのは、北部九州で起こった「磐井の乱」の頃からです。これは六世紀の事です。継体天皇が近畿を征服してすぐに起こった反乱で、難波津から瀬戸内海ルートで北部九州へ向かったとされています。

 これが実質上、初めての瀬戸内海での航海でした。

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最初の瀬戸内海ルートは6世紀[邪馬台国]

 この瀬戸内海ルートを開拓したのは、中国大陸への日本海航路を開拓した高志の国・能登の安曇氏と思われます。

 日本書紀によれば、安曇氏は五世紀頃に登場した始祖・阿曇浜子(あずみのはまこ)という海人(あま)の豪族です。北部九州に拠点を持っていましたが、七世紀の戦で、子孫の阿曇比羅夫(あずみのひらふ)が戦死して、日本全国に一族が広がった事になっています。ただし日本書紀は、九州系の藤原氏の息の掛かった書物で、越前系の蘇我氏を悪者扱いした書物ですので、確かなところは分かっていません。

 ここではまず、高志の大王・継体天皇が近畿を征服した五世紀から六世紀に絞って、関連する地域を挙げてみます。

 北部九州や能登半島のほかに、

・継体天皇の近畿侵略の拠点・高嶋

・瀬戸内海航路の起点・難波津

・阿曇浜子(あずみのはまこ)伝説の残る淡路島

 

このうち、北部九州と能登半島とは、古代より日本海航路の接点がありました。また、近畿地方の関連地域は、高志の大王・継体天皇と共に、安曇氏が能登半島から移動し、近畿征服や瀬戸内海航路の開拓に活躍した拠点です。

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安曇氏関連の地域[邪馬台国]

 具体的な地名としては、

・北部九州は、志賀島一帯で、近世までは志珂郷から阿曇郷と呼ばれていた地域です。

・能登半島は、福良津で、現在の石川県志賀町安津見地区です。

・高嶋は、安曇川流域で、近世までは志賀町および安曇川町と呼ばれていた地域です。

 これら3地域は、『志賀』『安曇』という名称で一致しています。単なる偶然ではなく、3つの地域とも、同じ海洋民族だった事の証でしょう。

・難波津は、現在の大阪市難波で、当時は海に面していました。この地域に近世まで『安曇江』という地名が残っていました。また、「続日本紀」に、難波津の入り江が『阿曇江』との名称の記載がある事から、瀬戸内海への出航地だったようです。

 これらから、高志の国・能登の海洋豪族・安曇氏は、継体天皇と共に近江の国に入り、近畿を征服後に瀬戸内海航路を開拓して、北部九州への航路を増やしたと見られます。

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志賀・安曇[邪馬台国]

 北部九州と近畿地方とは、古墳時代までは交流が無く、瀬戸内海ルートの航路も開拓されていませんでした。北部九州と高志とは、対馬海流と季節風を利用した西から東への高速の日本海ルートを利用していました。しかし、逆の西へ向かう場合は、対馬海流と逆方向になりますので、山陰地方の沿岸を沿うように東から西へ向かっていました。

 瀬戸内海ルートは、継体天皇が近畿を征服した6世紀に、能登の安曇氏によって、ようやく確立しました。近畿から九州へ素早く移動する必要があったからです。それは、継体天皇が近畿征服完了の一年後に、北部九州で起こった「磐井の乱」が原因の一つでした。

 次回は、高志の大王・継体天皇が近畿侵略の拠点にした高嶋の地での、能登の海洋民族、安曇氏の活躍を遺跡などから推察します。