編年の前提 土器の進化

 古代遺跡の時代推定を行う「編年」の主役は、土器です。

古代史では、ほんの一握りの権力者にばかり目が行きがちですが、その時代に生きていた大多数の人々は、名も無き一般民衆であり、彼らの生活必需品が土器だからです。当然ながら、青銅器や宝石類といった威信財とは比べ物にならない出土量があり、それらの進化の過程や流行り廃り、地域色などを比較検討する事で、広域的な人々の移動の歴史が浮かび上がります。今回は、弥生土器を語る前段階として、土器全般の概要を示して行きます。

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土器の年代学

 土器は、年代を決める指標としての役割を担っています。年代を計る物差しとして使用されるのは、土器が最も一般的、普遍的です。

 豊富に出土する遺物ですので、時代や地域によって様々な種類が確かめられます。

また、粘土で工作できるものですので土器の形は制作者の考えでつくられ、土質・作り方・仕上げかた・飾り方などは多種多様となります。

 当然ながら壊れやすいという、欠点とも思える特徴も持っています。しかしそれは、絶え間なく次々と作られているということですので、新陳代謝が早く時代の移り変わりが明確に見えるという側面を持っています。これは、器種や技法的特徴が進化しながら受け継がれているという長所でもあるのです。こうした変遷をたどれば、年代の物差しとなれる格好の遺物が、土器なのです。

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土器の変遷

 弥生土器について述べる前に、古代における土器の進化の歴史をざっくりと並べてみます。

まず、1万6000年前から2300年前頃まで使われていた縄文土器です。世界で最も古い、一番最初に作られたのが縄文土器です。個性的な文様や、土偶という不思議な形をした土人形が特徴で、日本人が一万年以上前から最先端技術を持っていた事の証になっています。

 次に、弥生土器です。水田稲作文化の伝来と共に日本列島全域に普及しました。縄文土器のような派手な装飾は影を潜め、実用的なスタイルになりました。

 古墳時代に入ると、土師器と呼ばれる弥生土器の流れを組むスタイルへと進化します。古墳から出土する埴輪も、この土師器の製法です。また同じ時期に、須恵器と呼ばれる陶器に近い土器の生産も始まっています。

 これらは、古墳時代から平安時代まで使われていました。

また、土師器が進化した「かわらけ」という土器は、一般庶民の食器として、江戸時代まで使われていました。

 一方で、高級な土器としては陶器や磁器があります。

須恵器が進化した陶器は、飛鳥時代頃から生産が始まったとされています。これは中国から伝来したもので、表面に釉薬を塗って高い温度で焼き上げたものです。

 さらに高温で焼き上げる磁器は、江戸時代から生産が始まったとされています。

陶器や磁器は、現代でこそ一般家庭に普通にありますが、古代から近世に掛けてまで、一般庶民には手の届かない高級品でしたので、「土器」という区分に入れるのは筋違いかも知れません。

 では、邪馬台国があった弥生時代の土器に焦点を絞って行きます。

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弥生土器の使用目的

 弥生土器の始まりは、北部九州だった事は間違いないでしょう。それは、水田稲作の伝来と、それに適した土器の使用が始まった事との相関関係が見事に一致しているからです。

 水稲の伝来時期としては、紀元前9世紀の佐賀県唐津市の菜畑遺跡が最古とされていますが、実際に日本列島に広がって行ったのは紀元前2世紀~3世紀頃です。それは、大規模な水田適地のある直方平野で、水稲栽培が確立・定着し、宗像エリアの海人族たちの活躍によって、弥生土器と共に全国に普及して行ったと考えられるからです。

 この弥生土器こそが、遠賀川式土器と呼ばれる弥生時代初期の標準土器です。直方平野を流れる遠賀川にちなんで付けられた名称です。なお、縄文土器から遠賀川式土器への移行期間に、刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)と呼ばれる種類も、福岡平野から多数出土していますが、ここでの詳細は控えます。

 弥生土器はその後、進化しながら日本全国で特色ある形式や様式へと変化して行きます。そして、弥生時代末期という邪馬台国の時代には、様々な地域の土器型式が、博多湾地域の方へ逆方向に流れ込んで来たという興味深い状況も起こっています。弥生土器の分布や流れから、当時の政治体制や人々の移動までもが垣間見られます。

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甕の進化

 弥生土器の始まりとされる遠賀川式土器が、縄文時代の土器と異なる点は、色々あります。単純にデザインがシンプルになっただけではありません。それは、

・焼き方の違い(焼成方法)

・土の質の違い

・使用目的の違い

などがあります。

 焼き方と土の質については、次回以降に示して行くとして、今回は使用目的に注目します。

弥生時代ならではの使用方法。それは、お米の炊飯です。炊飯には、甕が使われました。

 弥生土器の種類には、壷、甕(かめ)、鉢、高坏(たかつき)などがあります。

それぞれ、食物の貯蔵、調理器具、食器類、祭祀用の器台の目的があります。

これらの中で、縄文時代とは明らかに異なり、進化したのは甕です。

 甕は、縄文時代には無かった米の炊飯に使われたからです。穀物の貯蔵や、食器としての土器であれば、常に低い温度で使われます。しかし、お米を炊く場合には、長時間火炎にさらされる事になります。その分、丈夫で火の通りが良い構造にしなければなりません。甕は、この図のように底が尖がっていて、周りを石で固定して、満遍なく火が当たるような構造になっています。水田稲作が伝来する前の時代には、必要とされなかった構造ですので、弥生時代になってから進化したのは明らかでしょう。そしてこの形式は、古墳時代でさえも、若干の形の変化こそあれ、ほぼ同じような使われ方をしていました。

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弥生土器の伝播

  弥生時代初期の遠賀川式土器は、水田稲作と共に、対馬海流の流れに従いながら日本海沿岸各地に広がりを見せました。次の段階として、内陸部の瀬戸内地域や、近畿地方、東海地方へも伝播して行きます。

 そして、それぞれの地域で個性的な弥生土器が進化して行くことになります。

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海の高速道路

 なお一般的には弥生土器の広がりは、九州から近畿地方までは西から東へ均等に広がったと、単純に解釈されています。つまり、山陰地方と瀬戸内地方が同じスピードで伝播して行ったという事です。そして近畿地方に伝わった弥生土器は、ここを中心に、東海地方や北陸地方へ、さらには東北地方へと広がったとされています。この考え方には、私は断固反対します。

それは、一般的な従来の考え方では、対馬海流という海の高速ハイウェイや、瀬戸内海という世界屈指の困難な海域を、完全に無視しているからです。

 弥生土器の編年による年代推定は、以前の動画でも示しました通り、かなり大きな誤差があります。現在「標準」とされている土器の年代にしても、根拠が希薄と言わざるを得ません。考古学の先人たちの努力で築き上げた編年ですが、結局は人間の情緒的な部分に支配されているようです。

 自然科学の分野では、先人が築き上げた「物差し」は一切否定できませんが、考古学の分野の「物差し」は、非科学的なので、あっさり否定できます。

 次回は、弥生土器の製法などに焦点を絞ります。